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上の絵はNO.97、104の絵と3枚続きの1枚で、5月から8月の名所風景の貼交絵(はりまぜえ)で、他の2枚と同じように千社札(せんじゃふだ)が4枚交ぜてあります。千社札は多くの神社や仏閣に巡拝した印に納める、自分の名や屋号を印刷した札で、本堂内の柱や壁に貼りつけるものです。
中央の「両国川ひらき」とある四角い絵には、源氏丸と書かれた屋根船があり、小船もいくつか見えています。花火見物の船に果物などの食べ物を売ってまわる小船を、うろうろ船とよびましたが、果物はおもに西瓜や真桑瓜でした。
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江戸中期の明和8年(1771)刊の『評判瓜のつる』という本は、13種の瓜を当時人気の役者に見立てた評判記で、NO.17で、上上吉などの役者の位付けについて紹介しましたが、今回は役者と瓜の関係を見てみましょう。
「白瓜は松本幸四郎、山瓜は市川團蔵、姫瓜は尾上菊五郎、真桑瓜は市川高麗蔵、胡瓜は市川團十郎、西瓜は大谷広治、南瓜は市川八百蔵、糸瓜(へちま)は坂田藤十郎、賀茂瓜(冬瓜)は冨沢辰十郎、本田瓜は中村助五郎、丸漬(まるづけ)は三舛屋介十郎、烏瓜は中村勝五郎、夕顔は中村少長」となっています。知らない名を辞書でみると、山瓜は烏瓜、本田瓜は真桑瓜、丸漬は白瓜のそれぞれ異名とありました。
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真桑瓜は昭和初期には珍しいものではありませんでしたが、現在は知る人が少なくなりました。『万葉集』の「瓜はめば子ども思ほゆ」で始まる山上憶良(おくら)の長歌はよく知られていますが、この瓜は熟瓜(ほぞち)、甜瓜(あまうり)というもので、江戸初期の慶長の頃から真桑瓜とよばれるようになりました。「おしなべて人のうまがる」と市川高麗蔵に見立て、「土用の入より大道の賑わい、辻々に至る迄この瓜のないという事なく、上下おしなべて嬉しがります」としています。
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