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中央に花魁(おいらん)、左端に台屋のはこび(配達人)がいるこの絵は、山谷の吉原仲の町の風景、満開の桜は「助六由縁江戸桜」(すけろくゆかりのえどざくら)や、「籠釣瓶花街酔醒」(かごつるべさとのえいざめ)の舞台を連想させます。
吉原(新吉原)は『江戸名所花暦』(1827)にも桜の名所としてあげられていますが、「毎年三月朔日(ついたち)より、大門のうち中の町通り、左右をよけて中通りへ桜樹千本植える。常には、これ往来の地なり」とあり、毎年花の咲く時期だけ移植された桜でした。
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吉原の桜は、寛保元年(1741)の春に、茶屋の軒下に鉢植の桜を飾ったのが評判になって、翌年からは桜の木を植え、花期が過ぎると抜き去るのが恒例になりました。延享2年(1745)には桜の木の下に山吹を植えて青竹の垣根を廻らし、夜はぼんぼりに灯をともして夜桜も楽しむようになりました。(東洋文庫『東都歳時記』による) |
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台の物の料理や値段については、NO.28とNO.121に書きましたが、値段の割に分量が少なく、味も良くなかったようで、「台屋の御鉢でじきそこだ」ということわざがあります。
台屋から取り寄せる料理の御鉢(飯びつ)が浅いところから、「じき底」と「じき其処」をかけて、もうじき目的地につくという意味です。
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台の物の残りは、粗末な食事の遊女たちが食べたりもしたようですが、『吉原十二時』の中の五つ時(午前8時頃)の吉原の風景をよんだ狂歌に「家ごとによべの肴のあれこれと取り集めつつ歩くきの字屋」というのがあります。きの字屋は台屋のことです。
また、四つ時(午後10時頃)の狂歌には「玉子売鮓売る声のいろいろとまじりの見世は夜食まかなう」とあり、廓内には食べ物の振り売りも多かったようです。
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