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屋根船で、花火を眺めながら脚付杯を手にする源氏姿の男性を中央に、右側には柳橋の芸者が徳利を持って酒をすすめています。
酒の肴の一つは刺身で、大皿にガラスすだれを敷いて刺身を盛り、大根おろしを添えてあるのは、NO.113の三代豊国の描いた屋根船の酒肴の刺身とよく似ています。上の絵の絵師の梅蝶楼国貞(二代目国貞)は、初代国貞(のちの三代豊国)の娘婿なので、刺身の描き方も似ているのでしょうか。
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刺身の右側の大きな深鉢には、水の中に賽(さい)の目切りの物が浮かんでいます。これは水の物とよばれる夏の料理で、NO.89の「二十六夜待の料理」の中にも見られたものです。冷水に野菜や果物を小さく切って浮かべたもので、川上行蔵先生の「つれづれ日本食物史」(1992)によると、明治・大正頃にも、新潟県の農村では午後の昼寝のあとのお茶受けに水の物を食べていたとあります。
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水の物という名は元禄(1688-1709)頃からのもので、それ以前には冷し物(ひやしもの)とよばれて、室町時代からあった料理です。江戸時代でも寛永20年(1643)刊の『料理物語』には、さかなの部に「冷し物 大こん うり なすび はす 黒くわい りんご もも すもも あんず くり なし 此外いろいろ時の景物よし」とあります。
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尾張藩士、朝日重章の34年間(1684-1717)の日記『鸚鵡籠中記』(おうむろうちゅうき)は、元禄武士の日記として知られていますが、日常の食べ物も詳細に記しています。元禄6年4月の宴席の献立の中に「水物 くり 大こん花 なすび」とあり、元禄7年9月の献立には「水の物 栗 梅干 なし」とあります。江戸時代には、冷たい水で冷した水の物は、夏には欠かせない料理だったのでしょう。
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