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歌舞伎座百年

解説

1988年、歌舞伎座が百年を迎えた際に発行された、歌舞伎座の歩み・歌舞伎座の魅力をわかりやすくまとめた資料です。

歌舞伎座にお出かけになる前にお読みいただけると、きっと歌舞伎座の魅力を再確認いただけます。

木挽町の芝居

現在では中央区銀座四丁目という地番だが、歌舞伎座はそもそも、東京都京橋区木挽町三丁目に創建された。

木挽町というのはその名の通り、慶長十一年(一六〇六)に江戸城造営関係の鋸匠を住まわせたところで、万治元年(一六五八)に前面の海が埋め立てられ、同三年には森田座が創設されるなど、当時の歓楽の地であった。

松板のできそうな町芝居あり
ひき割って立者つかふ木挽町

などの川柳は、ここの芝居と土地柄をうまく表現している。

木挽町五丁目に山村座が創設されたのは、これよりもさらに前、寛永十九年(一六四二)であったという。

この座は、正徳四年(一七一四)、例の奥女中絵島と歌舞伎俳優生島新丘郎の密会事件で断絶となったが、それまでは堺町の中村座、葺屋町の市村座、それに木挽町の森田座とともに江戸四座といわれた大劇場であった。

山村座断絶以後は、森田座は江戸三座の一つとして、天保十三年(一八四二)十二月に天保の改革の余波で猿若町へ移転を命じられるまで、木挽町の芝居として櫓をあげていた。

現在の歌舞伎座の位置は、森田座と完全に一致するわけではない。しかし江戸開府間もない時代から、歌舞伎芝居のあった、歴史的な土地であることに間違いない。

歌舞伎座開場百年というが、木挽町の芝居の歴史からいえば、山村座以来四百年近い由緒ある地に現存する劇場ということができる。

現在の建物は、昭和二十六年一月に戦災の傷をいやして再建されたものである。その基盤は、大正十四年一月に改築された桃山風外観の大殿堂であった。中央に一段と高く聳えていた破風屋根こそよみがえらなかったが、左右の破風屋根をつなぐ大平屋根、唐破風の正面入口など、なおさらながら古典演劇の殿堂にふさわしい。

四百年になんなんとする、木挽町の芝居の歴史、そのなかに占める歌舞伎座百年の歴史の重みに堪えうる堂々たる姿である。

歌舞伎のメッカとして、その外観にふさわしい内容の充実こそ、歌舞伎座が第二世紀へ歩み出す大きな使命であろう。

歌舞伎座外観ア・ラ・カルト


銀座の雑踏をぬけて、晴海通りを築地へ向かう。昭和通りとの大きな交差点を渡ると、左手にこつ然といった表現にふさわしく、あの大屋根の歌舞伎座が姿を見せる。

あるいは、営団地下鉄日比谷線、または都営浅草線の東銀座駅から、地上へ階段をのぼると、頭上を圧するようにこの劇場が迎えてくれる。

その桃山風外観はいうまでもないが、あの瓦屋根は近代的ビル群のなかにあって貴重な存在であり、懐しさすら覚える。座紋鳳凰丸をデザインした大きな鬼瓦が地上を見下ろしているのも、近代的大都会の一角にあっては珍しくもあり、"歌舞伎の殿堂ここにあり"の感を強くする。

劇場表左右に絵看板の掲示場がある。一枚の絵のなかに一つの演目中の主要人物を程よく配した独自の画風は、十八世紀初頭から江戸歌舞伎の特色を効果的に描きつづけてきた鳥居派の伝統である。鳥居派は以来十代、江戸歌舞伎とともにあって、看板絵・番付絵のほか、浮世絵界で活躍してきた。絵看板は劇場への楽しい誘いの効果も果たす。この看板をながめていて、つい劇場へ誘いこまれた経験をもつオールドファンもいると思う。現在絵看板をかかげる劇場は、東京では歌舞伎座だけになってしまった。

正月や襲名、あるいは記念興行などには、劇場前に菰(こも)かぶりの酒樽が積みあげられることがある。これもかつては後援団体から贈られた名残りで、いやが上にも歌舞伎の景気をあおるうってつけの装飾であろう。

顔見世興行を十一月にという江戸時代からの伝統を守っているのも歌舞伎座である。その際正面に設けられるのが櫓である。炬燵やぐらに似た方形の櫓は、その劇場が公許のものであるというシンボルであった。だから昔は、劇場の創設を「櫓をあげる」ともいった。歌舞伎座では時にこの櫓を正面にあげて昔ながらの姿を見せる。

歌舞伎座東側にはお稲荷さんが勧請されている。一階右側廊下から地階へおりる階段のところから赤い鳥居と社が見えている。これも江戸時代からのしきたりを受けついだもの。初日と千穐楽には興行の成功、安全を祈り、感謝して関係者一同おはらいをしている。

二月の二の午(初午は初日と重なることがあるので避けたのだろう)には、二の午祭りも盛大にとり行われている。

劇場内部ところどころ





唐破風屋根の車寄せから、濃朱の扉を引いて入る。階投を上がると玄関ホールである。二階まで吹抜きのホール空間、二階床を支える濃朱うるし塗りの丸柱、緋の絨氈の床面に立った瞬間から、観客は現実の世界から断ち切られ、たちまち観劇への心おどる気分へと一変する。

この感情移行は、歌舞伎はもちろんのこと、演劇全般においても、夢幻の世界にひたる上での大切な準備である。

客席は三層。天井は吹寄せ竿縁天井で、舞台上部から後方立見席のうしろまで、通し天井の構造となっている。

豪華さと近代感覚を兼ねた上に、二本の竿縁の間に、間接照明と冷暖房設備がセットされている。この天井構造は音響効果を高める上でも有効に働いているのである。

一階の左右と玄関広間、二階正面及び左右、三階をとりまくロビーは、ほどよい広がりを持ち、その間に壁面を飾る絵画、売店、喫煙所、食堂、喫茶室などが配される。幕間の憩いの場でもあり、観劇の楽しさにプラスアルファーさせてくれる大切な空間である。ここで食事し、買物をし、語り合っている人々の楽しげな姿は、お芝居の楽しさを満喫している姿そのものである。

襲名や記念興行の折など、ことにこのロビーは、御贔屓からの贈り物の絢爛たる展示場ともなって、セレモニーを盛り上げてくれる。

歌舞伎の上演をまず第一の目的としている劇場であるから、幅約三十メートル、高さ約七メートルの額縁におさまった舞台は横に長い。

さらに歌舞伎の上演には不可欠な花道が左手に直交している。

一、二階左右には、のちに改造して設けられたちょっと贅沢な二人掛桟敷席がある。朱塗りの手摺と、上方に提灯とか、季節季節の飾り花などが飾られ、歌舞伎劇場独特の、楽しく、華かな雰囲気をかもし出す。

ことに、左手桟敷の前を通って花道を出入りする役々にとっては、巧まざる舞台背景ともなる。

桟敷席に美しく着飾った女性客などが坐ってくれると、華やぎも一層増し、観劇もなおさら楽しいものになるであろう。

歌舞伎座の舞台機構



多くの歌舞伎ファンは、開幕前心を躍らせながら客席の通路を案内されて自分の席に着くまでの、何となく落着かない、心ときめく時を経験しているはずである。大きくゆれる定式幕の黒・柿・萌葱の縦縞、人々のざわめき、開幕近いことを感じさせる柝(き)の音、そして鋭く柝が一つ響くと、下座の音楽にかかり、やがて幕が下手からゆっくりと、柝のキザミとともにあけられて、別世界が目の前に展開していく。

舞台が横に長いのは、絵巻物をひらいていくように展開していく効果があるようだ。舞台が動きはじめ、客席一階左手の花道にフットライトが点ぜられ、シャリッという揚幕の引かれる音がして人物が登場する。あるいはドロドロという大太鼓の音につれて、花道のせり(スッポン)から、怪しげな人物が現われ、また消える。舞台と直交する花道は、歌舞伎特有のものであるのはもちろんだが、昔は右手にやや狭いもう一つの花道(東の歩み・仮花道)が常設されていた。歌舞伎座のそれは、演目により仮設され、本花道と同様登退場の通路として、また舞台の一部として有効に使用される。

廻り舞台が廻って、次の場面が序々に現れてくるのも楽しい。歌舞伎座の廻り舞台は、直径約二十メートルある。セリは大小四個あって、大きいものは金殿楼閣をのせたまま上下し、その他人物が美しいポーズをとって現れたり、逆に沈んだりする。

それらの人物や道具をより美しく見せるのに照明は大きな効果を果たす。歌舞伎のもつおどろおどろした味わいを強調する向きには、今の照明はあまりにも明るすぎるというが、歌舞伎の色彩美を味わう上では、あらゆる角度から、または闇から一瞬の明への転換などの効果が十分に発揮されるよう、あらゆる角度からの照明器具がセットされている。

舞台の上方には高く簀子(すのこ)という設備があり、ここへ幕、道具の一部などが吊り込まれている。舞台に降る雪や、乱れ散る花びらも、この簀子に吊り込まれた雪籠をゆらして、中に仕込んだ紙の雪片や花びらを降らせるのである。観客を花吹雪の野に、あるいは雪原に立つ思いに誘いこむのである。

舞台は、新しい作品や、時には舞踊劇など緞帳によって開けしめされる。つづれ織の大幅名画が鑑賞できるというわけだ。当代一流画家の原画を、つづれ織の高度な技術によって織りあげた豪華なもので、現在五種類あって、幕間を利用して紹介されている。

楽屋ばなし

舞台をはさんで客席の反対側にあるのが楽屋である。江戸時代の劇場は二階建という規制があった。ただし楽屋は三階建でその規制に反するため二階を中二階と呼んで、実際の三階を二階であるという逃げ道をつくった。

三階には大部屋という、その他大勢などの役をする俳優の広い部屋をおくのは昔も今も変わりがない。「中ニ階」というと、下女とか並びの女中などを演ずる女方の総称となっていた。それはかつてここに彼らの楽屋があったからである。

中二階いはば楽屋の女じま

は右のことを実証する江戸期の川柳である。

幹部用の楽屋は個室で、中には床の間つきの楽屋もあり、一室を一人あるいは都合により二人で使用する。ここに着がえの衣裳やら小道具なども置いてあるし、生活必需品も持ち込まれる。

また扮装には欠かせない大きな鏡台(化粧前)が据えられる。化粧前は定紋などを散らした特別製、しかも移動の便も考えて組立式で豪華なものを使用する人も多い。贔屓からの贈り物も飾られるから、華やかである。

入口には、これも多くは贔屓から贈られる楽屋のれんがかけられ、実は殺風景であるはずの楽屋も舞台とはまた別の華やぎをみせている。

歌舞伎座の楽屋へは、北西隅、昭和通りに面したところから入る。楽屋口には楽屋番(口番)が、出入り、履物の扱いなどをする。上がったところに楽屋全体の管理をする頭取のいる頭取部屋がある。ここに着到板というものが置いてある。その月に出演する俳優の名を記した一枚板で、名前の上に穴があいている。俳優は出勤すると、その穴へ小さな木片 を差し込む。頭取は一見して俳優の出勤状況を知ることができる。出勤一覧表である。

その上に神棚があり、俳優は楽屋入りや舞台へ出る時に一礼して無事を祈る。

鬘はそれぞれの頭にあわせ、役にふさわしく鬘師によって作られ、劇場の床山部屋へ持ち込まれる。床山はその鬘を役にあわせて結髪する。化粧をし、衣裳をつけた俳優は最後に鬘をかけ、必要な小道具を持ったり身につけたりして舞台へ出る。舞台での役々の背後から手助けをしたり、小道具を扱ったりする黒衣(くろご)の人々も準備などで忙しく立ち働く。観客には見えないところでの入念な準備が、舞台で美しい花となって開くのである。

一、明治の歌舞伎座
-開場と"團菊"の時代M.

歌舞伎座は、明治二十二年十一月二十一日に開場した。以来、百年。一世紀の永きにわたって、日本が世界に誇る伝統的演劇、歌舞伎の上演に携ってきた。この間には、おびただしい数の俳優が歌舞伎の舞台を彩(いろど)り、歌舞伎座は、常に歌舞伎界をリードしてきたのである。"歌舞伎の殿堂"と称される歌舞伎座は、まさに日本の演劇文化に多大の貢献を果たしていると言えよう。

もともと歌舞伎座は、演劇改良運動の熱心な唱導者であった桜痴居士こと福地源一郎が、自分たちの理想を実現すべき日本一の大劇場を目指したものである。当初は改良演劇場とか改良座とか呼ぶ予定であったが、結局は"歌舞伎座"と座名が決まって発足した。
建設地は、当時日に日に殷賑(いんしん)を極めてゆく都心に目を向け、東京府第三勧工場(今で言う名店街のようなもの)の所有地であった東京市京橋区木挽町三丁目二十番地の約二千坪の空地を、払い下げ許可を得て買い取った。

劇場建設、及び開場後の経済面は、千葉勝五郎が金方となって取りしきった。劇場経営にはやはりその道のプロを、と考えた桜痴は、すでに新富座はもとより市村座、千歳座など大劇場の金方をしていた千葉勝五郎を口説いたのであった。結局は、福地源一郎と千葉勝五郎の二人が相座主(あいざぬし)となって経営に当たる。

明治二十二年十一月三日に工事は終り、十一月十日に落成式。敷地は千九百五十五坪(約6,463平方メートル)で、外部は洋風、内部は日本風で三階建ての檜造り、客席の定員千八百二十四人、間口十三間(23.63m)の舞台を持つ大劇場であった。座紋は当初から、奈良法隆寺の宝物に見られる鳳凰丸を用いた。

十一月二十一日開場式。翌二十二日柿(こけら)落しの初日をめでたく迎える。

柿落しには、明治の三大名優と謳われた"團菊左"が揃って出演した。すなわち、九代目市川團十郎は五十一歳、五代目尾上菊五郎は四十六歳、初代市川左團次は四十八歳という働きざかりで、そのほか、五代目小團次、七代目八百蔵、市川権十郎、二代目秀調、高砂屋の三代目福助、四代目松助、五代目源之助、二代目寿三郎、松之助、五代目家橘、五代目新蔵といった顔触れの大一座。演目は、河竹黙阿弥の『俗説美談黄門記』に大切所作事『六歌仙』である。

因みに当時の入場料は、上等桟敷一間四円七十銭、上等高桟敷一間三円五十銭、上等平土間一間二円八十銭、中等桟敷一間二円五十銭、中等桟敷一名五十銭、三階正面桟敷三十銭から二十銭。立見席への入場に下駄を脱がせたのは歌舞伎座が初めてであった。

旧来の劇場とは全く面目を一新したため、世間の人々は驚異の眼を見張った。

当時一流の俳優は、ほとんどが新富座の経営者十二代目守田勘弥の掌中にあったため、新興の歌舞伎座にとっては、その俳優行政に思う通りにいかないところがあった。が、翌二十三年三月には、團十郎が勘弥と義絶して歌舞伎座の専属となったため、三月二十五日に二回目の興行の初日を開けた。演目は、近松の『関八州繋馬』を桜痴が改作した『相馬平氏二代譚』五幕、『御誂雁金染』二幕と大切所作事『京鹿子娘道成寺』。『道成寺』が大変な評判で、三十三日のところ九日の日延べをする大当たりとなった。

ところがその後、桜痴が千葉勝と不仲になり、仲裁に入った田村成義らの案で、桜痴は相座主の名儀をはずし、単なる座付作者とすることにした。したがって千葉勝が二十三年七月からは単独で座主となり、同時に、田村の推薦で勘弥が興行主任として幕内一切の采配をふるうことになる。これによって團菊左の顔合わせも再び実現した。

二十四年になって、勘弥も歌舞伎座と絶縁。以後は田村成義が興行相談役として千葉勝を補佐する形をとる。

こうして経営陣の体制が整うにつれ、円朝物を河竹新七が脚色して菊五郎が主演した『塩原多助』『牡丹燈籠』や、團十郎が初演した『鏡獅子』など、良い成績を残したものも多く見られる。

團菊左をはじめ開場当時の俳優に加えて、芝翫(四代目)・福助(四代目、後の五代目歌右衛門)や初代猿之助、初代鴈治郎なども出演するようになった。

二十七年八月に日清戦争が始まると、時勢には勝てず、歌舞伎座でも十一月には際物の戦争劇『海陸連勝日章旗』を團菊で上演したが失敗。二十八年五月には、壮士芝居の川上音二郎の一座が初めて出演し、やはり戦争劇の『威海衛(いかいえい)陥落』を上演して大当たりをとった。

二十八年十一月、團十郎が久しぶりに勤めた『暫』は、玄鹿館の鹿島清兵衛によって写真撮影がなされた。これが舞台写真の嚆矢である。

また、明治三十二年十一月には、活動写真の横田 商会が、團菊の『紅葉狩』を歌舞伎座裏の特設舞台で映画に撮影。このフィルムは現在も残っている。

話は少し戻るが、二十九年に千葉勝五郎は歌舞伎座から手を引き、三月に歌舞伎座株式会社が設立された。社長に皆川四郎(渋沢栄一子爵義弟、東京電燈支配人)、副社長井上竹次郎(後藤象次郎伯爵義弟、米穀取引所)、幹事に田村成義、顧問守田勘弥。

十二月には皆川社長が辞任し、伊藤謙吉が社長に就任、井上竹次郎は興行専務となる。これを機に田村は歌舞伎座と訣別し、大阪へ赴く。

千葉勝五郎は、明治三十六年四月十三日に歿したが、この三十六年には、菊五郎、團十郎も相次いで世を去ってしまう。二月十八日、菊五郎の訃報を聞いた團十郎は、直ちに五代目の遺子丑之助に六代目菊五郎を、その長兄栄三郎に六代目梅幸を、弟英造に七代目栄三郎を、襲名させることを提案し、翌三月の歌舞伎座で襲名披露興行を行なった。披露狂言は六代目の五郎、梅幸の十郎、栄三郎の八幡三郎による『曽我の対面』で、自分は工藤を勤め、別に『口上』を出し、心のこもった披露を述べた。

しかし、この團十郎も、半年後の九月十三日には黄泉(よみ)の客となってしまうのである。

"團菊左"のうち一人残った初代左團次も、翌三十七年八月には世を去る。左團次の場合、二十六年以降は新しく出来た明治座を本拠に活躍していたため、歌舞伎座にはあまり出演しなかった。

"團菊左"の死によって、明治歌舞伎の絢爛たる時代は終焉を告げた。劇壇は一大危機に見舞われたわけだが、幸いにも新しい力は少しずつ伸びていた。若くして頭角を上げ、團菊の相手役もつとめた成駒屋福助は、養父四代目芝翫の歿(明32・1)後、三十四年に五代目芝翫を襲名。また、五代目菊五郎の甥にあたる家橘は三十六年十月に十五代目羽左衛門を襲名したが、"口上"を言ってもらうはずだった菊五郎も團十郎もすでに亡く、広い歌舞伎座の舞台に一人だけで登場し、自ら挨拶を述べるという、異例の『口上』で話題を呼んだ。

明治三十七年からは、それまで午前十一時開演だ ったのを午後一時からにし、必ず舞台稽古をする、 初日から本値段とするなどの新制度を行なったが、名優を亡くし、日露戦争による世情不安によって、なかなか厳しい状態であった。

明治三十九年一月四日、福地桜痴、六十六歳で歿。榎本虎彦が立作者となる。

引退の意志を固めた井上竹次郎社長は、松竹の白井松次郎を介して初代鴈治郎に、自分の最後の手興行に出演を乞い、花を添えてもらい、三十九年の十月興行は大当たりをとる。この興行限りで井上は歌舞伎座の株を全部売り払い、以後、社長に大河内輝剛がなった。大河内社長は、一定の俳優を選んで他座への掛持ちを禁ずること、俳優の弟子の数を決めること、男衆の給金は俳優が支払うことなどを断行した。そして、芝翫、八百蔵、梅幸、羽左衛門、高麗蔵、猿之助、訥升、鴈治郎を幹部に、菊五郎と吉右衛門を準幹部に決めた。

また、劇場の内外を改造した。正面に洋風の車寄せを作った。看板の掲示場を左右二ヵ所にしたのはこの時である。また、出方を案内係と称して制服を着せるようにした。

興行としては大入りを続け、四十一年四月には、実力としては團菊に匹敵すると言われる七代目團蔵を招いて仁木弾正と長兵衛を演じさせたところ、空前の大当たりとなった。

ところが翌四十二年十月九日、大河内輝剛社長が急逝。以後は社長を置かず、井上角五郎、藤山雷太、岡本貞烋の三人の連帯責任とする。

そのほか、この期間には訥升改め七代目宗十郎(明42・9)、女寅改め六代目門之助(明43・6)、猿之助改め二代目段四郎(明43・10)などが、いずれも歌舞伎座で襲名している。

二、改装と松竹の経営
-明治末から大正期


明治四十四年の歌舞伎座は、夏いっぱい休場して、表掛りを純日本式の宮殿風に大改築した。正面の車寄せは唐破風造り、二本の大柱を青銅で包み、その天井は檜の格組(ごうぐみ)、銅葺(ぶ)きの釣庇をつけ、左右の平家も同じく破風造り、内部正面大玄関は格(ごう)の鏡天井、大廊下を通って観客席に入れば、二階、三階、向こう正面に至るまで総檜造りの高欄付き、土間の上は二重折上げの金張りの格(ごう)天井。

改築第一回興行は、四十四年十一月で、芝翫改め五代目歌右衛門の襲名披露興行であった。

歌舞伎座の改築は、この年三月に東京丸の内に建てられた純洋風の帝国劇場に刺激されてのことであった。帝劇開場に伴い、梅幸、宗十郎、松助らが歌舞伎座をやめて帝劇専属となった。十一月の帝劇で高麗蔵から襲名した七代目幸四郎も帝劇専属である。

歌舞伎座の座付は、歌右衛門をはじめ、八百蔵(大7に七代目中車襲名)、十五代目羽左衛門、二代目段四郎、十一代目仁左衛門の五人が主要メンバー。特に歌右衛門、仁左衛門、羽左衛門の三人は、歌舞伎座の"三衛門"と呼ばれることもあった。

大正時代に入ると、芝居茶屋の買収、出方制度の廃止、切符制度の実施など、種々の改良を行なった。しかし、これらの改良も興行成績の向上とはならず、新興の帝劇や関西から進出した松竹合名社の勢力に押され気味だった。大正二年八月八日、健康を害した田村成義は引退し、松竹合名社社長の大谷竹次郎を会社の相談役として経営することになり、その第一回興行が十月に行なわれた。ついで翌三年十一月興行から、歌舞伎座株式会社は劇場を大谷に賃貸、ここに松竹が興行一切を受けもつようになったのである。

田村は歌舞伎座を退いて以後は、市村座の経営に専念する。こうして大正期の東京歌舞伎界は、主として帝劇・市村座と、松竹が経営する歌舞伎座との鼎立の形になったのである。

当時は劇場間の俳優の融通も比較的自由になり、歌舞伎座にも他の劇場座付きの俳優も多く出演しているが、松竹が経営にあたるようになってからは、さらに顕著になった。したがって、亡父の遺志をついで明治座を本拠地とする二代目左團次(明39襲名)と松蔦・寿美蔵ら、市村座の菊五郎・吉右衛門・三津五郎・勘弥(のち帝劇へ移籍)らに長老の三代目歌六、帝劇の梅幸・幸四郎・宗十郎ら、関西からは鴈治郎をはじめ中村梅玉(二代目)・福助父子、二代目延若(大4に延二郎から改名)、三代目雀右衛門(大6芝雀から改名)、中村魁車(大3に成太郎から改名)ら、また新派の喜多村緑郎・伊井蓉峰・河合武雄らも、随時歌舞伎座に出演している。

明治期の歌舞伎座が江戸の劇場の例にならい、条件の悪い時季には休むこともあったのに対し、季節のよしあしに拘らず、俳優の顔ぶれを変えて一年中興行を打ち続ける松竹の興行方針がもたらしたものでもあった。

これは俳優にとっても、松竹の息のかかった各地の劇場に交互出演できることになり、おのずから出演数も多くなり収入もよくなる。だからみんな喜んで松竹のために力を尽くしてくれるわけで、一挙両得という次第であった。

なお、新劇女優の草分け松井須磨子(大8・1歿)も、『復活』の中で歌った「カチューシャの歌」が大流行した全盛期の、大正三年八月には歌舞伎座に出演し、ズーデルマンの『マグダ』などを演じたことがあった。

この時期に物故した主な俳優は、六代目門之助(大3・8歿)、三代目歌六(大8・5歿)、二代目段四郎(大11・2歿)、上方役者では斎入(大5・3 歿)、二代目梅玉(大10・6歿)などがいる。

また、立作者の榎本虎彦が歿し(大5・11)、そのあと立作者となった竹柴晋吉が引退(大9・1)して、木村綿花が幕内部長となった。歌舞伎座の四半世紀を支えた田村成義も、大正九年十一月八日、七十歳でこの世を去った。

そして、興行界に新風を吹き込む松竹の歌舞伎座経営は順調であったが、大正十年十月三十日午前八時四十分、漏電による火災で歌舞伎座は焼失した。直ちに重役会を開いて新築することを決め、大正十一年六月地鎮祭を行ない、十二年中には竣工の予定で工事を進めた。

ところが、またも十二年九月一日の関東大震災で罹災し、工事は一時頓坐した。

当時の陣容は、常務取蹄役に柏木多七、井上伊三郎。取締役に河村寅吉、大葉久吉、波多海蔵、大谷竹次郎。監査役磯部尚。相談役苗村又右衛門、三輪善兵衛。経営者大谷竹次郎。支配人井上伊三郎。幕内部長兼立作者代理木村錦花。幕内顧問兼電気照明顧問松居松翁。幕内顧問岡鬼太郎、のちに遠藤為春も加わる。舞台監事川尻清潭。

大正十三年三月になって、改めて建築指令が下り、十二月十五日に現在の建物の原形である大殿堂が新築落成。この間実に三年余の空白があった。

そして十二月三十日、絵看板が上がり、初春の開場式を待つばかりとなった。

三、昭和前期の歌舞伎座
-新築から戦中、戦後



大正十三年の末にその偉容を現わした歌舞伎座は、奈良朝の典雅壮麗に桃山時代の豪宕妍爛(ごうとうけんらん)の様式を伴わせ、鉄筋コンクリートを使用した耐震耐火の日本式大建築である。敷地は東西五十間(約91m)、南北四十五間(約82m)、延建坪三千六百六坪七合(約 11,930平方メートル)、本館の屋根の高さ百尺(約30m)に達する。観客席は東西の桟敷席だけを畳敷にして次の間付のぜいたくなものにしたほかは、全部椅子席で冷暖房完備。客席の西側後部には舞台監事室を設けた。舞台間口は十五間、廻り舞台の直径六十尺(約18m)で、世界的にも珍しい蛇の目廻しとなっていた。照明設備はアメリカとドイツから取り寄せるなど、内容外形ともに日本一を誇る大劇場である。

大正十四年一月四日、午後四時と七時の二回、五千人の来賓を招待して、開場式を挙行。新築開場初日の六日には、開幕前に大谷社長立ち合いのもと杵屋栄蔵が太鼓の式を行ない、華々しく開幕した。演目は、岡本綺堂作『家康入国』三幕、『連獅子』、『玉藻前曦袂』、『曽我綉侠御所染』。出演は、歌右衛門、羽左衛門、秀調、亀蔵、荒次郎、三升、芝鶴、福助、 仁左衛門、中車、市蔵、寿美蔵、鶴蔵、新十郎、家橘、児太郎、千代之助、左團次など。大入りであった。

再開後二年を待たずして、年号が、昭和と変わった。昭和初期の世界的大恐慌による不景気時代を経て、六年には満州事変、七年には上海事変が起こり、十二年七月の日華事変勃発から十六年十二月の太平洋戦争へと、日本は年とともに暗黒の時代に突入してゆく。そして、戦中戦後の混乱期と、まさしく波瀾万丈の時代であった。

しかし、歌舞伎座はこの間も十五代目羽左衛門、六代目菊五郎、初代吉右衛門の人気と相俟って、常に国劇の殿堂として、権威を保ち続けた。

昭和四年九月には歌舞伎座別館が新築落成。座付の食堂がこの中に移転。経営の主体は、従来の歌舞伎座株式会社が昭和六年四月には松竹興行株式会社に併合され、十二年四月からは松竹の組織が松竹株式会社に変わるという変化があった。が、年間を通じて、顔揃いの大歌舞伎を中心に、ときには中堅・若手の公演や新派公演などもまじえながら、興行を打ち続けるという方針に変わりはなかった。

歌舞伎に関しては、昭和のはじめ、帝劇と市村座が凋落するにともない、その専属だった俳優たちも必然的に松竹の傘下に加わるようになり、したがって歌舞伎座には、東京の歌舞伎俳優がほとんど全員、交互に出演するようになったのである。

名優が当たり役をつとめる定評ある古典、一流作家による格調高い新作、あるいは舞台機構を駆使した装置のみごとさなどによって、話題になった公演の数は多いが、とくに七年十一月と八年一月に催した九代目團十郎の三十年祭追遠興行、十年三月・四月の五代目菊五郎三十三回忌追善興行、十一年四月を第一回として年中行事になった"團菊祭"、十一年十一月の三代目歌右衛門建碑記念興行などは、顔ぶれの豪華さからいって、最も歌舞伎座らしさを発揮した公演といえよう。

この間、昭和三年八月には、二代目猿之助と六代目友右衛門ら中堅により演じた木村錦花作の『東海道中膝栗毛』が圧倒的な大入りを呼び、以後約六年にわたって毎年の夏芝居の恒例になっている。

十八年十二月に上演された『勧進帳』(七代目幸四郎の弁慶、十五代目羽左衛門の富樫、六代目菊五郎の義経)が記録映画として撮影された。

十九年三月興行は、演目と配役まで決まりながら、二月二十五日に発布された決戦非常措置要項にもとづく高級劇場の閉鎖命令のため、あえなく中止になってしまった。以後、東京都防衛局が管理することになり、非常の場合の避難所、平素は臨時公会堂として官公署や公益団体に賃貸することに決まったが、十月に白金供出者招待の特別興行が催されたのを最後に、翌二十年五月二十五日に空襲で焼失してしまった。

戦前の歌舞伎座を彩った俳優はまことに多彩である。中には長期にわたって活躍しているので、前章に入れたほうが妥当な人もいるが、歿年順に列挙してみよう。

大正前期、前名芝雀時代に多く歌舞伎座に出演し、その後、生地大阪に帰って立女方となった三代目雀右衛門(昭2・11 歿)。五代目菊五郎門下で名人松助と謳われた老巧な脇役四代目松助(昭3・9歿)。名興行師十二代目勘弥の次男で、文芸座を組織して翻訳劇や創作劇にも出演した十三代目勘弥(昭7・6歿)は四十代の若さで世を去った。

江戸で生まれ上方で育ち、東西で名人肌の卓絶した技量を見せた十一代目仁左衛門(昭9・10歿)。明治末から大正、昭和と帝劇の座頭として活躍し、時に歌舞伎座で羽左衛門の女房役を勤めた近代の名女方六代目梅幸(昭9・11歿)は、歌舞伎座の舞台で倒れ、四日後に他界した。

初代鴈治郎(昭10・2歿)は、最後まで上方劇壇の王者の地位を占めたが、時々東上して歌舞伎座でも得意の上方芸で話題を呼んだ。幕末歌舞伎の頽廃美を伝える伝法な役"悪婆(あくば)"を得意とし、田圃の太夫と通称された四代目源之助(昭11・4歿)。九代目團十郎の高弟で、師の歿後は歌舞伎座の大幹部として歌右衛門とともに活躍した七代目中車(昭11・7歿)。明治座、東京劇場の座頭で、歌舞伎座でも『元禄忠臣蔵』シリーズを上演した二代目左團次(昭15・2歿)は、自由劇場を創立して新劇運動の先駆となり、新歌舞伎の開拓、歌舞伎十八番の復活、海外公演の実現など、演劇史に残した功績は極めて大きい。生涯を左團次の女房役者として通した女方二代目松蔦(昭15・8歿)も、左團次のあとを追うように世を去った。

明治の團菊左亡きあとの劇界を掌握した五代目歌右衛門(昭15・9歿)は、政岡、玉手御前、八重垣姫を得意とし、新史劇『桐一葉』『孤城落月』の淀君の傑作も、明治時代に生まれている。鉛毒のため年ごとに体が不自由になり、昭和になってからはほとんど舞台では動けなかったが、坐ったまま演じても気品、貫録は、歌舞伎座の大舞台を圧していた。女方でありながら、明治・大正・昭和の三代にわたって劇界の最高の地位を占めた、空前の名優であった。

このほかの、戦前までの歌舞伎座を彩った主な俳優では、歌右衛門の長男で、気品ある美貌の若女方として将来を期待されながら、父より早く夭逝した五代目福助(昭8・8歿)、達者な実力派として知られた女方三代目秀調(昭10・9歿)、菊五郎の実弟で立派な柄と風格ある芸が貴重がられた六代目彦三郎(昭13・12歿)、門閥外から出世して押出しと堅実な芸で地歩を固めながら、鳥取の地震で不慮の死をとげた六代目友右衛門(昭 18・9歿)、かつて鴈治郎の相手役として福助(昭10に三代目梅玉を襲名)と拮抗、非運にも空襲で横死した関西の女方魁車(昭20・3歿)などの名も忘れてはなるまい。

また、新派では、草創期から活躍してきて大立者になり、二枚目役者として人気を得て、"三頭目"のひとりとなった伊井蓉峰(昭7・8歿)、同じく三頭目のひとりで、華麗な芸風で知られた女方の河合武雄(昭17・3歿)の名をあげておきたい。

十五代目羽左衛門の死(昭20・5歿)は、奇しくも戦前までの歌舞伎をしめくくる形になった。美貌とすぐれた風姿、玲瓏たる名調子は、昭和に入って滋味が加わり、ますます光ってきたといってよい。七十過ぎても前髪の似合った絶後の二枚目役者である。信州湯田中に疎開したが、ついに終戦を待たずに病歿した。

そして、終戦を迎える。生き残った名優たちは、二十六年に再開場するまでの歌舞伎座空白の間、戦災を免れた東劇を中心に二十三年に再築された新橋演舞場などで、それぞれ特色を生かしながら苦闘を続ける。名優たちのあいだで十五代目羽左衛門はすでに亡く、菊五郎・吉右衛門・幸四郎・宗十郎・三津五郎・猿之助らが健在だった。

ところが二十四年には幸四郎・宗十郎・菊五郎の相つぐ他界という危機に至り、歌舞伎界は必然的に世代交替を余儀なくされた。大名題復活という興行方針もあって、二十四年九月には染五郎が八代目幸四郎を、二十五年一月にはもしほが十七代目中村勘三郎を襲名、いずれも東劇で披露興行を催している。こうした若手俳優たちが、遺(のこ)った先輩たちに伍し、やがて来るべき新時代を期して精進を重ねているのが、歌舞伎座が復興するまでの情勢であった。歌舞伎座再開を前に他界した人も少くなかった。

その中で、かつて大阪から東京に迎えられ、梅幸亡きあとの羽左衛門の相手役として、歌舞伎座の立女方的存在になっていた十二代目仁左衛門が、二十一年三月、非業の死をとげた。

かつて鴈治郎の相手役で、戦後菊五郎に迎えられた三代目梅玉(昭23・3歿)は、夕霧、玉手御前、戸無瀬などで注目されたが、歌舞伎座の再建は見られなかった。

二十四年という年は、團菊が相ついで歿した明治三十六年を思わせる厄年で、かけがえのない名優を三人までも失っている。まず一月二十七日には七代目幸四郎が、三月二日には七代目宗十郎が、そして七月十日には六代目菊五郎がつぎつぎに鬼籍に入ったのである。

幸四郎も昭和期には歌舞伎座で活躍することが多かった。立派なマスク、堂々たる押し出しは、大舞台で一段と光って見えた。当たり芸中の当たり芸『勧進帳』の弁慶は生涯を通じて千六百日以上、昭和期の歌舞伎座だけでも興行数として十公演、二百五十日以上はつとめているはずである。

六代目菊五郎の享年は、六十三。幸四郎・宗十郎にくらべ、まだまだ活躍できる年齢である。それだけに、歌舞伎にとって打撃の大きい死であった。父五代目菊五郎や九代目團十郎の薫陶を受けた下地は、市村座時代から磨きがかかっている。芸域が広く、昭和十年以後の歌舞伎座は、実質的には菊五郎の時代といってもよく、得意とする舞踊『道成寺』『鏡獅子』『うかれ坊主』、吉右衛門とのコンビによる『寺子屋』や多くの世話物などは、羽左衛門の『源氏店』、幸四郎の『勧進帳』などとともに名舞台になっていたのである。

翌二十五年二月には、新派と新劇の中間を目指した中間演劇の開拓者井上正夫が他界している。

四、昭和後期の歌舞伎座
-復興から現代まで

昭和二十六年一月、新しい歌舞伎座が誕生した。三度焼失して三度復興された。松竹大谷竹次郎の執念とも言っていいほどの情熱がもたらしたものである。

外観は、戦前の歌舞伎座を踏襲して奈良及び桃山の優雅な味と近代性を持たせている。中央に高くそびえていた大屋根は姿を消し、左右の破風がその威容を誇っている。延建坪は三千四百二十九坪(約11,336平方メートル)、客席数は、桟敷、一幕見を含めて二千六百席。舞台間口十五間(約27.6m)、廻り舞台の直径六十尺(約18m)。セリも、大小合わせて四ヵ所設けられている。総工費二億八千百三十八万八千六百六円をかけて完成した。

この復興を機に、歌舞伎座は、三社によって運営されることになる。つまり、土地、建物を管理するのが株式会社歌舞伎座、食堂、売店を経営するのが歌舞伎座サービス株式会社(現歌舞伎座事業株式会社)、そして、興行経営面を担当するのが松竹株式会社である。松竹は、大谷竹次郎会長が昭和四十四年十二月二十七日に九十二歳で歿してのちは、城戸四郎会長、大谷隆三社長を経て、五十九年から永山武臣社長が経営の任に当たっている。

さて、再開場の開場式は、昭和二十六年一月三日、内外の名士五千人を招いて、華々しく行われた。

柿落しの演目は、『二条城の清正』『籠釣瓶』などで、菊五郎に替って歌舞伎界の王座の地位についた吉右衛門を中心に、猿之助と三津五郎、時蔵、それとすでに若手の域を脱し、幹部の仲間入りする形になっていた新しい勘三郎と幸四郎(後の白鸚)、そして芝翫(現歌右衛門)らが主要なメンバーだった。

この開場興行を二月まで続演させたあと、三月は『源氏物語』の上演で大きな話題を呼んだ。舟橋聖一脚色・谷崎潤一郎監修・久保田万太郎演出のほか、美術・作曲・振付にも最高のスタッフを配し、海老蔵(十一代目團十郎)の源氏を中心に、梅幸の桐壺・藤壺、松緑の頭中将、猿之助の御門など、適役を揃え、歌舞伎座の広大な機構を活用した舞台は、果たして興行的に大成功を収め、異常なほどの大入りを招いた。

この公演は、『源氏物語』の第一部として、「桐壺の巻」から「賢木の巻」までだったが、十月には「須磨明石の巻」を加えて再演している。

『源氏』の成功は、歌舞伎が新しい客層を掴むのに大きく貢献した。そして、興行者と俳優のあいだに新作上演への自信を植えつけた。その後『狐と笛吹き』『若き日の信長』『地獄変』など新作歌舞伎が打ち出される魁となる。

次に四、五月の二ヵ月にわたる芝翫改め六代目歌右衛門の襲名興行は、歌舞伎座の古典的で豪華な雰囲気を十分に活用したものであった。

関西の名優二代目実川延若(昭26・2歿)は、ついに東京の新しい歌舞伎座へは出られることなく他界した。

二十八年の十一月興行は、十日に天皇陛下の御来場を得て、吉右衛門の『盛綱陣屋』と歌右衛門の『娘道成寺』が天覧の栄に浴した。明治二十年の外務大臣井上馨邸における天覧劇は、歌舞伎の社会的地位の向上を物語る事象だが、劇場への御来場は演劇史上初めてのことで、歌舞伎座が国家的な文化機関になったのを示すものであった。なお、この月の吉右衛門の『盛綱』は重要無形文化財として、舞台をそのまま記録映画におさめられている。

吉右衛門は、復興後の歌舞伎座の常に中心的立場にあったが、翌二十九年七月に当たり芸『熊谷陣屋』を演じたのを最後に、九月五日病歿した。明治後期から秀才として注目され、大正期には六代目菊五郎とともに市村座の黄金時代を形成し、昭和に入ってからは劇界の第一線に立っていた。

三十年代に入ると、東京の歌舞伎界は菊五郎劇団系の海老蔵・梅幸・松緑と、吉右衛門劇団系の勘三郎・歌右衛門・幸四郎とが完全に第一線に立ち、毎月の興行はだいたいこの顔ぶれを中心に企画された。ただし、公演は両劇団が別々に行なうのが原則のようになっていたが、三十二年には十二月に顔見世興行と称し、久しぶりに両劇団が合同、懸案の海老蔵と歌右衛門、勘三郎と梅幸、あるいは幸四郎・松緑兄弟の顔合わせが実現するようになった。このころの劇界は、歌舞伎と新派、あるいは新劇・映画界というような異なるジャンルの俳優が共演する、いわゆる交流の現象がようやく目立ち始めていたが、歌舞伎座の顔見世も、一つにはそういう現象がもたらしたものと考えられよう。

そのほか、歌舞伎界のニュースとしては、三十年に大谷竹次郎が文化勲章を受章した。この年七月に再開した東京宝塚劇場で第一回東宝歌舞伎が催され、これに勘三郎・歌右衛門・扇雀が出演して長谷川一夫と共演し、十月に猿之助一座が中国を訪演した。

三十一年五月末から六月初めまで、中国京劇団の一行が来演。不世出の名女方梅蘭芳の演技が絶讃を博したことをあげておきたい。

歌舞伎座だけに限っては、三十三年五月に"團菊祭"を復活。二十四年の東劇以来、十年ぶりのタイトルである。かつての團菊祭は明治の名優九代目團十郎と五代目菊五郎の業績を偲ぶものだったが、今度はこれに六代目菊五郎追善の意味もこめた点が異っている。三十四年四月は皇太子殿下の御成婚を記念した"奉祝大歌舞伎"を公演。

三代目中村時蔵は、三十四年七月に世を去った。青年時代から長く兄吉右衛門の相手役をつとめ、戦後は東西を通じての立女方になった人。年輪ととも に芸も円熟し、片はずし役や世話女房など、身につ いた古風な味は後輩の追随を許さぬものがあった。

三十五年は、六月から七月にかけ、歌舞伎の初めてのアメリカ公演が実現した年である。歌舞伎座では、十月の本公演で松緑主演の『シラノ・ド・ベルジュラック』を上演、新しい演劇制作と観客の開拓に、大きな冒険を試みている。また、七月には歌手を中心にした興行を試みて成功したが、これは翌年から恒例になった三波春夫公演をはじめ、歌手や映 画スターを主軸にした興行の先駆になった。この年、十二月には、東京から関西に移って成功した女方、四代目富十郎が病歿している。

三十六年には、六月末から八月にかけ、猿之助・歌右衛門・段四郎・延二郎らの一行がソ連を訪演。三十五年のアメリカ公演と同じように大成功をおさめるという明るい話題があった。

七代目三津五郎(昭36・11歿)は、こういう時期に、超然として八十歳の生涯を終えた。舞踊にかけては早くから名人の域に達し、『喜撰』『傀儡師』『舌出し三番』などは、戦後の歌舞伎座でも絶品の名をほしいままにしている。実に明治歌舞伎の正統を伝える最後の役者だったのである。

なお、新派の大御所で女方芸を完成させた喜多村緑郎(昭36・5歿)も、九十歳という天寿を全うして大往生をとげた。

三十七年。四、五月に待望の海老蔵改め十一代目團十郎の襲名興行が催された。養父市川三升(昭31歿)に十代目が死後追贈されているが、舞台の上に團十郎の名があらわれたのは明治の九代目以来、六十年ぶりの名跡復活であった。披露狂言は『勧進帳』と『助六』。松竹傘下の歌舞伎俳優ほとんど全員を網羅した大一座で、東宝在籍の幸四郎も富樫の役で出演した。規模も費用も空前の豪華なもので、この大看板の復活は、歌舞伎界の一大慶事となった。

総じて三十七年は歌舞伎にとって活気のある一年だったが、一月には、次代をになうホープとして期待された四代目時蔵の急逝という悲報もあった。

三十八年は、五月に猿之助が名跡を孫の團子に襲がせて自分は猿翁を名のり、千秋楽前の三日間、『口上』にだけ出て、これが最後の舞台になり、半月後の六月十二日には七十五歳の生涯を閉じた。なお、猿翁の長男三代目段四郎も、同じく不治の病床に臥していたが、やはり三日間だけ『口上』に出て、十一月十八日、父のあとを追うように世を去った。

三十九年十月には東京オリンピックが開催され、"オリンピック芸術展示"の一つとして歌舞伎座も、内外の観光客に歌舞伎の特色を知らせるため、定評ある古典ばかりを並べ、最高の配役で演じた。ほかに初めての試みとして、一週間だけ午後九時四十分開演という"ナイト歌舞伎"を催している。

四十年は歌舞伎が重要無形文化財として総合指定され、寿海を会長とする伝統歌舞伎保存会が発足しているが、歌舞伎界全体にとっては大きな星が失われた。十一月十日、十一代目團十郎が五十六歳で病歿したのである。

いうまでもなく團十郎は、海老蔵時代、終戦直後の『助六』が出世芸となり、美貌と輪郭の大きさ、朗々たる口跡によって人気を集め、常に戦後歌舞伎の中心にあった俳優である。そして、空前の豪華な團十郎襲名からわずか三年で消えてしまった。受けた打撃は、痛烈だった。

新派でも、四十年一月には花柳章太郎が他界している。新派の事実上の統率者であり、最後の名女方だった。

四十一年、三宅坂に国立劇場が建設され、十一月に開場した。その前月には丸の内の帝国劇場が新築された。

四十二年四月、大谷竹次郎会長が勲一等瑞宝章を授かる。四十三年は明治百年にあたり、これを記念する行事が各地で行なわれたが、歌舞伎座も四月を"明治百年記念特別興行"と称して、真山青果の『慶喜命乞』と『将軍江戸を去る』を一挙に上演、十一月も"明治百年記念顔見世大歌舞伎"と謳って『忠臣蔵』の通しを幹部総出演の大一座で上演している。これに先立ち、九月は休場して、場内を一部改装した。

四十年代にはいって、新之助(現團十郎)、菊之助(現菊五郎)、辰之助(昭62・3歿)の若手が"三之助6q ブームを呼んだ。この三人は四十五年二月興行で、開場直後の歌舞伎座にエポックを画した『源氏物語』を上演。かつて父親たちが演じた役を揃ってつとめ、 月日の流れの速さをまざまざと示している。

四十八年には菊五郎の名跡がよみがえり、十、十一月の二ヵ月にわたって、菊之助改め七代目菊五郎の襲名披露が行なわれた。昭和二十四年以来の大名跡復活で、歌舞伎界のほとんど全員が顔を揃える盛大な披露興行だった。

この十年間に物故した主な俳優としては― 。

八代目團蔵(昭41・6歿)は、昭和の歌舞伎界では珍しく引退の披露をしたあと、念願の西国順礼の旅に出て、一ヵ月かかってその旅を終え、瀬戸内海に入水した。亨年八十四。明治の名優七代目團蔵の芸脈を伝える唯一の継承者だった老優の劇的な死であった。

三代目左團次(昭44・10歿)は、六代目菊五郎歿後、すぐに結成された菊五郎劇団の支柱となりながら、舞台ではたいていワキに廻って後輩を引き立て、劇団の繁栄に努めた。

三代目寿海(昭46・4歿)は、門閥外から出世して歌舞伎界では最高の栄誉を得た人。晩年まで若くみずみずしい風姿と口跡を保ち、ことに『桐一葉』の長門守、『修禅寺物語』の頼家、『鳥辺山心中』の半九郎、『頼朝の死』の頼家などには、新歌舞伎の見本のような名演技を見せている。

八代目中車(昭46・6歿)は、国立劇場の興行中に急逝した。故猿翁の弟として、若いときから新作に非凡の理解力があったが、晩年は古典でも重厚な脇役と老役に定評があった。

八代目三津五郎(昭50・1歿)の場合、不慮の事故だけに、急逝はとくに残念だった。歌舞伎界きっての知識人で、戦後は関西に在籍し、武智鉄二氏の実験歌舞伎に協力して、若手の演技指導に当たったこともある。昭和三十年代から東京に戻り、父七代目譲りの舞踊のほか、老役に滋味ある演技を示し、貴重な存在になっていた。

十四代目勘弥(昭50・3歿)は、十五代目羽左衛門に似た容姿で、身についた実力と"花"のある芸風により、二枚目はもとよりワキに廻っても歌舞伎らしい色彩を添える得難い役者になっていた。

八代目宗十郎(昭50・12歿)は、柄と口跡がすぐれ、舞台の大きさは亡父七代目を偲ばせるものがあり、重要なワキの女方として定評があった。晩年健康を害し、長く舞台に立てなかったことが惜しまれる。

五十二年には、三十四年以来中絶していた"團菊祭"が五月に復活された。五十三年は歌舞伎座開場九十年とあって、十一月にその記念興行が催された。この興行から、一階の桟敷席を畳敷きの四人の枡席から、二人席にし、腰かけられるようにした。

劇界の最長老だった三代目多賀之丞は九十歳で舞台に立つという世界でも初めての記録を打ち立て、五十三年六月に大往生をとげた。同年二月、菊五郎劇団結成三十周年記念興行の『かっぽれ』に出演、これが最後の舞台になった。

五十五年十二月、劇団前進座の創立五十周年記念公演に松竹は歌舞伎座を提供しているが、これは劇団結成以来初めての歌舞伎座出演で、創設者の翫右衛門(昭57・9歿)、国太郎にとっても大きな思い出になった。

新派の女優水谷八重子も、五十六年十月に病歿した。大正時代の新劇から出発して大劇場演劇に進出、常にスターとして艶麗さを保ち続けた稀有の女優だった。

五十六年十、十一月に幸四郎の名跡を長男染五郎に譲った白鸚もその襲名興行が最後で、翌五十七年一月には他界した。もとより当代を代表する英雄役者。七代目幸四郎譲りの弁慶、関兵衛、初代吉右衛門譲りの由良之助、熊谷、樋口など、実父と岳父両方の当たり芸を継承し、新作、翻訳劇でも成功している。

五十七年四月は休場して、客席数を千九百六席に減らして、椅子にゆとりを持たせるなど、内部を大規模に改装した。

二代目鴈治郎(昭58・4歿)は、父子二代にわたっての上方劇壇の大黒柱。父の当り芸『紙治』『梅忠』『吉田屋』などを継承したほか、女方にもすぐれ、技量にかけては先代以上と賞されることもあった。映画にも出演した。近松物の復活上演にも意欲を燃やし、ことに息子扇雀とのコンビによる『曽根崎心中』は戦後の歌舞伎を代表する当たり狂言になった。

五十九年には、四月に長谷川一夫、十二月に大川橋蔵が他界した。ともに歌舞伎座の舞台にも立って、多くの観客を動員した。

昭和六十年は、松竹創業九十周年を迎えた年であるが、この年には、四月から六月までの三ヵ月にわたって、海老蔵改め十二代目團十郎の襲名披露興行が盛大に行われた。二十年ぶりの大名跡の復活であったが、空前の一大イヴェントとして、歌舞伎界は活況を呈した。

百年をかえりみると、実に多くの名優たちが歌舞伎座の舞台を踏み、それぞれに特色を発揮しながら、絢爛たる花を咲かせている。

不死鳥のような歌舞伎は、これからも年ごとに若く新しい力を生み、はぐくんでゆくであろう。

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