バックナンバーへ
戻る
毛氈(もうせん)と煙草盆を運ぶ茶屋女『一夜附脚本正本』・二世国貞画
二階客席へ料理を運ぶ茶屋男
『忠孝遊仕事』・歌麿画(寛政二年刊)

 前回(NO.4)でご紹介した『名ごりの夢』の中の「あのころの芝居見物」は、上流階級の話ですから、食事は芝居茶屋でして、桟敷席へは、すし、菓子、くだものなどが運ばれています。
 さて、『守貞漫稿』では一般客の食べものについて、要約すると次のように記述しています。


「食事は客の好みや座席の等級によって一定ではないが、大体は席に着くとまず煙草、茶、番付が届けられる。次に菓子、次に口取(くちとり)や刺身など、次に煮物、次に中飯、次にすし、終わりに水菓子が通例である。中飯は江戸では幕の内と呼び、円扁平の握り飯をわずかに焼いたもの十個に、卵焼と蒲鉾と、蒟蒻(こんにゃく)・焼豆腐・里芋・干瓢の煮物を添え、六寸重箱(約18cm角)に入れて、人数に応じて見物席に運んで来る。これは茶屋で作るが、芳町にある萬久という店で、笹折に入れて、一人分百文で売っているものを、茶屋で重箱に詰めて客に出すこともある。」


 これを見ると、次々と食べ物が運ばれて来て、食事の分量としては多過ぎるように思いますが、朝早く家を出て、夕方暗くなるまで芝居小屋に居るのですから、これで適量だったのでしょう。

 このように土間で見物する一般客は、見物席で茶屋から運ばれる菓子、弁当、すしを食べるのが通例だったようです。そこでそのような人たちは、3つの頭文字をとって“かべすの客”と呼ばれました。
注)
萬久は萬屋久兵衛の屋号で芳町(葭町)にある料理屋でした。芳町は天保以前の芝居町だった葺屋町(ふきやちょう)や堺町に接した場所で、現在の人形町のあたりです。萬久は幕の内弁当の販売などもして繁盛していましたが、明治維新の前に閉店したそうです。
 監修・著 松下幸子千葉大学名誉教授
>>松下教授プロフィール




掲載情報の著作権は歌舞伎座に帰属しますので、無断転用を禁止します。
Copyright(C) 2001 歌舞伎座事業株式会社