江戸時代の芝居茶屋は、芝居小屋の周囲にあって、観客のために木戸札を予約したり、飲食の世話をするところでした。
芝居茶屋は、初めは茶を出す程度の掛茶屋(小屋がけの粗末な茶屋)でしたが、次第に立派なものになって、明和年間(1764 - 71)になると、中村座には大茶屋が16軒と小茶屋が15軒、市村座には大茶屋10軒と小茶屋が15軒、森田座には大茶屋7軒があって繁盛したといいます。
当時の茶屋には等級があって、大茶屋、小茶屋、水茶屋の区別がありました。大茶屋は表茶屋ともよび、天保の改革で芝居町が浅草猿若町に移ったころからは、一流の料理屋の格式を持つようになり、富裕な人々に利用されました。小茶屋の中には芝居小屋の裏手にある裏茶屋もあり、水茶屋は主として場内の飲食物を扱うところでした。
幕末の三都(江戸・京都・大坂)の風俗を記した『守貞漫稿(もりさだまんこう)』には芝居についての章もあり、その中に「弘化三年(1846)猿若町一廓図」があり、芝居小屋と芝居茶屋の関係がよくわかります。
中村座のある猿若町一丁目の町割を見ますと、中村座と道を隔てて操芝居(人形芝居)の薩摩座があり、それぞれの周囲に多くの芝居茶屋が並んでいます。
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注釈)
大茶屋・小茶屋・水茶屋・表茶屋・裏茶屋とありますが、それぞれ、おおぢゃや・こぢゃや・みずぢゃや・おもてぢゃや・うらぢゃや と読みます。また、幕末の三都中「おおさか」は当時の使用漢字「大坂」と記載いたしております(現在は大阪)。 |
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