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前回に再現した芝居茶屋の食事の夜餉はそばでしたが、一般に江戸の人々はそば好きだったようです。今回は、そば屋と芝居の役者絵を組み合わせた錦絵をご紹介しながら、江戸時代のそば屋の変遷をたどってみます。
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穀物のソバは奈良時代から栽培されていましたが、古くは粒食(りゅうしょく)されており、粉食(ふんしょく)されるようになってからも、そば掻きやそば餅などに作られ、麺のそば(そば切り)が現われたのは、江戸時代初期の慶長年間(1596-1615)といわれています。
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初めはそば屋はなくて、うどんと共に菓子屋が作って売り、その後うどん屋ができて、そばも売っていました。江戸にそば屋が登場するのは元禄のなかばから宝永年間(1695-1711)といわれ、安永年間(1772-1781)にはうどん屋よりそば屋が優勢になっています。幕末の江戸では各町に1店のそば屋があり、売値の相談で会合した時のそば屋は3763店だったと『守貞漫稿』にありますから、屋台のそば屋も加えると、その数はずい分多かったようです。
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注) |
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「東都高名会席盡」は、嘉永5~6年(1852-53)にかけて版元藤慶から刊行された揃物の錦絵で、人物を3代歌川豊国が、料亭を歌川広重が担当しています。掲載の絵は1979年に共文社によって復元刊行されたものです。 |
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