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風流役者地顔五節句 七月之図
歌川豊国(初代)画 文化6年(1809)頃 国立国会図書館所蔵
 
 上の絵には「風流役者地顔五節句 七月之図」とあります。七月の節句といえば七夕で、上部には七夕にめぐり逢う二つの星をあらわす牛をひく牽牛(けんぎゅう)と、はた織の織女(じょくじょ)が描かれています。
 中央の地顔(素顔)の役者は、初代沢村源之助で、後の四代目沢村宗十郎です。台の上にあるのは組上灯籠と呼ばれるもので、切抜き絵を組立てて風景をつくり、ろうそくなどで内側から照らすものです。当時は七日から盆の行事に入るところもあったそうですから、組上灯籠は盆の用意でしょうか。
 
 七夕については平成3年のNO.39で由来などを書きましたので、今回は滝沢馬琴の『馬琴日記』から天保5年(1834)の江戸の七夕の行事を、食べ物を中心に調べてみました。
 7月5日は「晴 風あり 今朝はじめて秋風たつ」とありますが、旧暦の7月は季節では秋でした。この日、知人から七夕祝儀として吉野葛小袋入を贈られています。

 6日には七夕の短冊竹2本に馬琴の長男宗伯の妻お路とその子太郎が、色紙や短冊に詩歌を書いて付けています。当時は寺子屋でも七夕の詩歌を教え、町家では軒並み屋根の上に七夕の竹を立て、壮観だったといいます。

 夕方には婿の清右衛門が七夕祝儀として素麺大束5把と室鯵ひ物20枚を持参しています。

 夜には馬琴の妻お百が地主の家へ孫の太郎を連れて素麺大束3把を贈りに行き、太郎へ真桑瓜2個を貰っています。
 7日には、松前藩に仕える宗伯が、礼服で松前屋敷へ七夕祝儀の挨拶に行き、太郎も母親の実家へ羽織袴で挨拶に行き、庭の木の林檎を16程届けています。

 昼食には、赤飯と一汁二菜と漬物で家内一同七夕を祝うとあり、江戸の七夕は現在とは随分違うものでした。

 監修・著 松下幸子千葉大学名誉教授
>>松下教授プロフィール
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