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7月7日の七夕の行事は、江戸時代には五節供の一つとして幕府の公式行事であり、民間でも盛んに行われました。家々の屋根の上には、七夕の詩歌を書いた短冊、色紙で切った網や吹き流しなどをつけた青竹が立ち、空を覆うばかりであったといいます。 |
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七夕は、奈良時代に中国から牽牛(けんぎゅう)・織女(しょくじょ)星の伝説と、乞巧奠(きっこうてん)の風習が伝わり、日本固有の棚機津女(たなばたつめ)の信仰と合体して始まったものといわれます。
牽牛星は鷲座のアルタイル、織女星は琴座のベガで、牽牛は農事を、織女は織物や裁縫をつかさどる星とし、二つの星が天の川をはさんでめぐりあう七夕に、裁縫などの上達を願う行事が乞巧奠でした。
また、棚機津女は機(はた)で布を織る女で、水辺の機屋で神を迎えて祭り、人々のけがれを神に託して水に流して祓う(はら)う神女でした。 |
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江戸時代の七夕の食べ物には、素麺(そうめん)、瓜類や果物などがありました。
『日本歳時記』(1688)には、七夕に素麺を食べるのは、七夕に索餅(さくべい)をたべると、おこりの病にかからないという中国の伝説によるとあります。室町後期の『尺素往来』(せきそおうらい)には「殻(かじ)の葉の上の索餅は七夕の風流」とあり、このころには七夕の索餅は定着していたようです。 |
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索餅については菓子か麺かなど江戸時代から多くの説があり、現在も定説がありませんが、一般には索餅が発達変遷したものが素麺と考えられています。
徳川将軍の七夕の祝膳献立には素麺があり、京都の公家社会の七夕の膳にも素麺が見られ、一般の人々も七夕には素麺を食べ、また贈答の品ともしていました。 |
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