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10月の歌舞伎座では、夜の部に「雪暮夜入谷畦道(ゆきのゆうべいりやのあぜみち)」が上演され、入谷のそば屋の行灯には「二八そば」とありました。テレビの時代劇でも、そば屋の看板には「二八そば」がよく見られます。
上の絵には「山海名産盡 信濃蕎麦」とあり、左手の看板に「信州名物二六」とあるのは「二六そば」のことです。「二六そば」は信濃だけのものではなく、『江戸名所図会』でも「二八そば」と共に、いくつか見つけることができます。
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この「二八」や「二六」の解釈には定説がなく、「二八」では一杯の値段が二八(にはち)十六文とする代価説と、そば粉8割に、つなぎの小麦粉2割で打ったそばとする混合率説があります。
『日本国語大辞典』には、「二八そば」では両説が併記してあり、「二八うどん」には「江戸中期以降の1枚16文のすうどん」とあります。
また「二六」の項には「1杯の価が12文のそばやうどん」とあり、「二八そば」だけに混合率説が採用されています。うどんは小麦粉だけで作るので代価説をとり、そばだけに混合率説を認めるのはおかしいと思います。
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『守貞謾稿』(1853)にある「二八そば」についての記述を要約すると「二八そばは寛文4年(1664)に始まったといい、値段が16文のことである。慶応になって物価があがったので江戸のそば屋が役人の許可を得て値上げをして20文とし、またついで24文としたので、看板から二八を除いた。京坂も同じであろう。24文になっても三八とはいわない」とあり、代価説です。
うどんにも「二六」があり、「一八そば」や「三四そば」もあったといいますから、代価説の方が優勢のようです。 |
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