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右上には米蔵が立ち並び、浅草御蔵の辺でしょうか。
弁才天(商売と芸能の神)が桝を持ち、大黒天(富貴と長寿の神)が米俵に縄をかけ、布袋尊(長寿と無病息災の神)が米俵をかつぎ入れています。
 倉に米俵を運ぶ福神たち
 画師名なし 寛政(1789-1801)ころか 財団法人 味の素食の文化センター所蔵
 江戸時代には、農民は収穫の半分以上の米を年貢米として幕府や大名に納め、残りの一部は冠婚葬祭や盆・正月などのハレの日のために貯え、さらに肥料その他の費用のために換金したので、日常の食事にまわせる分はごく僅かだったといいます。そのため米は野菜類を多く加えた“かて飯”や、雑炊や粥として食べるのが普通でした。
 
 江戸には天領(幕府直接の領地)からの年貢米や、諸藩の江戸屋敷用の藩米も送られてきて、浅草には幕府の米蔵が51棟も並ぶ浅草御蔵があり、その付近を蔵前とよびました。現在も浅草には蔵前の地名が残っています。
 武士たちは、幕府や藩から受ける俸禄米
(ほうろくまい)から食用分を差し引いた残りを米商人を通して換金して生活し、その米を買って主食としていたのは、江戸など大都市の住民たちでした。
 そのため都市では米価が庶民の生活に大きく影響し、米価の安い時期には脚気が流行し、江戸に多かったので“江戸わずらい”ともよばれました。また凶作で米不足になると米価が高騰して生活に困り、米屋の打ちこわしなども起こりました。
 『守貞謾稿』(1853)によると、江戸では朝に飯を炊いてみそ汁とともに食べ、昼は冷飯で野菜か魚などの一菜を添え、夕飯は茶漬けに香の物を添える。京坂(京都・大坂)では昼に飯を炊き、煮物あるいは魚類またはみそ汁など、二・三種を添え、朝飯と夕飯には冷飯に茶、香の物を添えるとあります。
 監修・著 松下幸子千葉大学名誉教授
>>松下教授プロフィール
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