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 花曇艶街下駄傘 歌川国安画 文政(1818-30)ごろ
 「たばこと塩の博物館」所蔵
 料理には酒がつきものなので、錦絵にも料理があれば酒器が見えます。NO.49の江戸芝居三階の図にはチロリとぐい飲みがありましたが、上の絵には朱塗りの盃と盃台、盃台の右に銚子があります。
 
 『守貞謾稿』(1853)には、「近世銚子専ら小形なり。ちろりにて燗(あたた)め、これに移すなり」とあり、上の絵と同じような銚子が図示されています。
 チロリは金属製なので、これで酒をあたためると金気
(かなけ)で味をそこなうので、磁器が瀬戸で大量生産されるようになると、磁器製の燗徳利が普及したといわれています。
 盃にも変遷があり、古代は素焼土器の土器(かわらけ)が用いられ、中世になると漆器の盃が用いられるようになりました。また古い時代ほど盃が大きいのは、酒宴では一つの盃をまわして飲んだためで、江戸時代になると飲酒が日常化、大衆化して独酌が行われるようになり、猪口(ちょく・ちょこ)という小さい盃が使われるようになりました。
 『守貞謾稿』にも「盃は近年漆盃を用ふこと稀にて、磁器を専用とす。京坂も燗徳利はいまだ専用せざれども、磁盃は専ら行はるるなり。磁盃、三都ともに“ちょく”といふ。猪口なり」とあります。
 しかし、ハレ(正式)の席では土器や漆器盃が用いられており、現在も同じです。

 なお、上の錦絵の歌舞伎狂言は「富岡恋山開(とみがおかこいのやまびらき)」の改作で、右の小女郎が二代目岩井粂三郎(のちの六代目半四郎)、中央の出村新兵衛が五代目松本幸四郎、左の玉屋新兵衛が三代目尾上菊五郎です。
 監修・著 松下幸子千葉大学名誉教授
>>松下教授プロフィール
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