江戸中期から幕末まで、江戸の町の町民の居住地は約2割で、寺社地が2割、残りの約6割が武家地だったといいます。
寺社地や武家地には緑地が多く、とくに大名屋敷には広大な庭園があったことは、現在も残っている都内の後楽園や六義園から想像することができます。
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上の錦絵には“お庭の花あそび”とありますが、背景の風景は大名屋敷の庭園のようです。3人の人物は御殿女中らしく、着物の模様などから見て、季節は秋のように思われます。
右側の1人は岡持(おかもち)を持ち、中央の人物が右手に持っているのは、酒席で盃をすすぐ盃洗(はいせん)です。左側の1人は重そうな酒樽を持っていますから、花を眺めながらの酒宴の席へ行くところでしょう。
酒宴の肴は田楽(でんがく)らしく、遠景の建物の前には田楽を焼く人たちが見えます。
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NO.7と8に田楽について書きましたが、串にさした豆腐に、みそを付けて焼くのが田楽の基本で、後に里芋やこんにゃくも田楽の材料になりました。
“おでん”は、語源からいえば田楽の女房詞(にょうぼうことば)です。江戸中期の国語辞典『俚言集覧(りげんしゅうらん)』には「こんにゃくの田楽を、おしなべておでんと呼ぶ」とあります。これはこんにゃくを串にさしてゆで、みそを付けたもので、昭和初期でもおでんといえばこれだったように思います。大根・こんにゃく・さつまあげなどを煮込んだ現在のおでんの出現がいつなのかは定説がありません。江戸後期からあったとする説では、『浮世風呂』(1811)の中の「大福餅から、ゆで玉子。お芋のおでん」とある行商人の売り声を根拠としています。
しかしお芋のおでんは、ゆでた里芋を串にさしてみそを塗ったものでもあり、私の知る限りでは、煮込みおでんは明治以降のものと考える方が妥当のようです。
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