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日本の相撲(すもう)は、農業生産の吉凶を占う神事として、古代からあったといいます。平安時代には相撲節会(せちえ)として宮廷でも行われ、室町時代には職業的な相撲集団ができて、諸国を巡業しました。
江戸時代になると全国各地で相撲が盛んになり、元禄時代(1688-1704)には土俵や番付などの制度も整い、天明・寛政年間(1781-1801)には、江戸を中心に庶民の娯楽として最盛期を迎えました。 |
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歌舞伎や人形浄瑠璃にも、相撲物とよばれる力士を題材とした狂言ができ、よく知られている「双蝶々曲輪日記(ふたつちょうちょうくるわにっき)」もその一つです。『歌舞伎事典』を見ると、相撲物としてこのほか10狂言もあげられており、当時の相撲の人気が想像されます。 |
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上の錦絵では、中央の力士の前に料理をのせた膳が置かれています。大鉢の中の料理は何かよくわかりませんが、中央の皿には鯛の焼物があります。鯛の頭は力士の右手にあって、現在の魚の頭は左手に置く常識とは反対です。現在のような魚の置き方は、いつごろからのものなのか、“江戸の美味探訪”からは外れますが調べてみました。 |
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秘伝伝受の日付が寛永19年(1642)とある四条流の秘伝書『料理切形秘伝抄』には、「魚を板に据(すえ)て人の前に出すには、海魚は腹を人の方へなし、川魚は背(せな)を人の方へむけて出す物也。同かしらの向(むけ)やうは人の左の方へむけべし。ちいさき魚はかしらを人の方へむくるものなり」とあります。
江戸時代にも、魚の頭は左に置くしきたりはあり、聞くところによると、絵師はしきたりよりも、描きやすさを優先したといいます。 |
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