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羊羹(ようかん)といえば、現在では練羊羹が主流ですが、それは江戸時代後期からのことです。それまでの羊羹は、餡(あん)に小麦粉と葛粉を加えて蒸した蒸羊羹でした。
練羊羹は餡に寒天と砂糖を加えて、練りながら煮つめたもので、材料の寒天の創製は万治年間(1658-61)といわれています。 |
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『嬉遊笑覧(きゆうしょうらん)』(1830)には、練羊羹は寛政(1789-1801)のころからとあり、『北越雪譜(ほくえつせっぷ)』(1842)にも、練羊羹は寛政のはじめに江戸で作られて諸国にひろまり、今は江戸から遠い小千谷(おぢや)にもあると記しています。 |
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江戸の練羊羹は、寛政のはじめに日本橋の喜太郎という者が作りはじめ、文化年間(1810年ころ)には、上菓子屋の鈴木越後や金沢丹後でも練羊羹を売り出し、文政年間(1818-30)には、深川佐賀町の船橋屋織江の練羊羹が評判になりました。 |
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この船橋屋の主人は、天保12年(1841)に出版された近世菓子製法書の最高峰といわれる『菓子話船橋』の著書で、この本には練羊羹の作り方も詳しく書かれており、現在の作り方とほぼ同じです。
その中に「練物類一棹(さお)と唱(となふ)るは、長さ六寸(約20cm)に巾一寸(3.3cm)、一船にて十二棹に切るなり。製して流し入る箱を、菓子屋の通言(つうげん)に船という。今は練羊羹を製せざる所もなく、常の羊羹はあれども無きが如く、練を好み玉ふ様にはなりたり。」とあって、棹物の語源(船には棹が付きもの)や練羊羹流行の様子がうかがわれます。
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