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江戸時代には、汁粉や雑煮を売る屋台店や行商の看板には、正月屋と書いてありました。なぜ正月屋なのかわかりませんが、雑煮は正月を祝うもの、鏡餅を割って汁粉にして食べる鏡開きも正月の行事だったことなどが理由のように思われます。 |
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汁粉の定義はなかなか難しく、文政13年(1830)成立の『嬉遊笑覧』(きゆうしょうらん)には「今は赤小豆(あずき)の粉をゆるく汁にしたるを汁粉といえども昔はさにあらず。すべてこといふは汁の実なり」とあります。 |
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『和菓子の系譜』(1967刊)は、8頁にわたって汁粉と善哉の定義を論じ、本来は餡(あん)の汁の中に子(実)として餅を入れるので餡汁子餅であり、略して汁子、転じて汁粉になったと述べています。 |
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汁粉と善哉(ぜんざい)の定義は、現在でも関東と関西で違いがあるようですが、これは江戸時代からのもので、『守貞漫稿』(1853)には要約すると次のように書かれています。
「京坂では小豆を皮のまま黒砂糖を加えて丸餅を煮るのを善哉という。江戸では小豆の皮をとり、白砂糖の下級品或は黒砂糖を加えて切餅を煮るのを汁粉という。京坂でも小豆の皮をとったものは汁粉、または漉し餡の善哉という。江戸では善哉に似たものをつぶし餡という。また漉し餡に粒の小豆をまぜたものをいなか汁粉という」 |
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注) |
鏡開きの日は、もとは1月20日でしたが、慶安4年(1651)4月20日に将軍家光が逝去して20日が忌日となったため、承応年間(1652-55)から1月11日に改められたといいます。 |
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