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 小春十二月の内初雪・焼芋屋
 歌川豊国(三世)画 虎屋文庫所蔵
 上の絵には12月とありますが、旧暦の12月は現在の新暦では1月ごろに当たります。
 左側の焼芋屋のかまどの火の色が雪景色の中に暖かく、中央の商家の主婦と丁稚
(でっち)、右側の背負った赤ん坊をあやす母親など、ぬくもりと生活感のあるこの錦絵で、2002年の最終回を飾ることにしました。
 
 さつまいもは、江戸初期に中国から琉球へ伝えられ、琉球産のさつまいもが薩摩へ伝わりました。享保20年(1735)に幕府は薩摩から種芋を取り寄せて青木昆陽に試作を命じ、それが成功して全国に普及しました。伝来の経路から、江戸時代には琉球芋とも薩摩芋とも呼ばれました。
 飢饉に役立つ作物として幕府はさつまいもの栽培を奨励しており、寛政元年(1789)には『甘藷百珍』(いもひゃくちん)が出版されています。
 
この本には122種のさつまいもの料理法があり、その中に焼芋の作り方が「完(まる)にてわらの熱灰(あつばい)にうづみてよし。近年焼いもの新方(しんほう)世におこなわる。味わいうづみ焼に及ばず」とあります。
 上の錦絵の焼芋屋には、かまどの上に木蓋がみえるので、平なべにさつまいもを入れて焼く新しい方法のようです。
 江戸に焼芋屋ができたのは寛政5年(1793)冬といいます。『守貞漫稿』(1853)には、江戸には専門の焼芋屋は少なく、冬に番小屋で売っており、行燈(あんどん)に“〇やき”とか“八里半”と書いてあるのは、丸ごと焼いたもの、栗(九里)の美味に近いという意味からとあります。
注) 番小屋は町内警備のため町境に設けられた木戸の番人のいる小屋。番人は給料が少ないので副業として駄菓子やろうそく、冬は焼芋などを売っていました。
 監修・著 松下幸子千葉大学名誉教授
>>松下教授プロフィール
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