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浅草松のすし本店
歌川豊国(三代目)画  『魚づくし』組本社刊
 店の前にすし桶を持つ女性が立ち、左手の天水桶には浅草平右衛門町とあって、山形に松の字が大きく書かれています。また上の方に見えるのれんには本店とありますから、松のすし本店前の光景です。
 女性の持っているすし桶には押し蓋がありますから、中に入っているのは押しずしで、上にのせた折箱に握りずしが入っているようです。松のすしでは握りずしだけでなく、押しずしもつくっていたことがこの絵からもわかります。
 『守貞謾稿』には「江戸鮓に名あるは本所阿武蔵の阿武松のすし、上略して松の鮓といふ。天保以来は店を浅草第六天前に遷す。また呉服橋外に同店を出す」とあります。
 前回NO.253の「松のすしと弁慶縞」の絵には、すしの折箱に「あたけ松のすし」とありましたが、この絵では浅草平右衛門町とあり、『守貞謾稿』の記述のように移転したことがわかります。第六天は第六天神社(だいろくてんじんのやしろ)のことで、浅草橋の近くにあり、『江戸切絵図』で見ると、第六天前丁の隣が平右衛門町になっています。なお、浅草に移転してからも「あたけの松のすし」と呼ばれていたようです。
 松のすしは高価なことでも有名で、『柳多留』に「おはしたの口へはいらぬ松の鮓」「そろばんづくならよしなんし松ヶ鮓」などの川柳があります。『江戸名物詩』には「本所一番安宅鮓、高名当時並ブベキモノ無シ。権家の進物三重の折、玉子ハ金ノ如ク、魚ハ水晶ノゴトシ」とあり、進物用の折が高価だったようです。『甲子夜話』に、五寸の器を二重に重ねたのが三両もするとあるそうですから、三重はもっと高価になります。
 高価な進物用がよく売れた理由は、11代将軍家斉の側近で権力のあった中野播磨守の邸が、松のすしの近くにあり、贈賄用に用いられたためともいわれています。
 監修・著 松下幸子千葉大学名誉教授
>>松下教授プロフィール
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