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この国貞の浜松の図は、広重の「東海道五拾三次之内浜松」と風景は同じで、大きな杉の木の下で駕籠かきらしい男たちが暖をとっている焚火の煙が主題になっており、杉の木の右側に遠く浜松城の天守閣が見えます。
浜松城は古くは引馬(ひくま)城といい、元亀元年(1570)に徳川家康が大改築して浜松城とし、天正14年(1586)まで居城としました。浜松は城下町で宿場でもあり、本陣が5軒、旅籠の数も多かったようです。
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NO.222の浜松宿の食事では、名物の鰻が予算の関係上、精進のうなぎ豆腐になりましたが、江戸後期の新居(荒井)の鰻蒲焼については、歌舞伎役者の三代目中村仲蔵が、自伝の『手前味噌』の中に詳しく書いています。原文は文語体ですが、小池章太郎の口語訳によります。仲蔵は大坂への旅の途中で、文政12年(1829)4月15日に、2人の道連れと一緒に鰻を食べています。
「荒井の名物は鰻で、軒並みに鰻の看板が出ている。江戸を発ってから久しく鰻も食わねえから、中食にしようってことになり、一軒にはいった。「おい、鰻を三人前くんな」わっちは飲めないが二人はいける口だから一ぱいやっているうちに、木地塗りの八寸の重箱に蓋の落ちつかねえほど入れたのがやってきた。蓋をとってみると、江戸とはちがって、串は傘の骨みてえに太い、下地(したじ)の色も悪い。それをお重へいっぱいもってくるのは大業(おおぎょう)なこった、とちょっと値段のほうもこわくなったが、しかたがねえから食ってみると、木っ葉をかむようで、そのまずさってもなァたとえようがなく、これが鰻とは夢にも考えられねえんで。」
仲蔵は新居の鰻蒲焼を酷評していますが、3人前600文ですみ、残った分は竹の皮に包んでもらい、二川宿で夕食のおかずにと頼み、鍋に入れて卵をかけて出してくれたものを、少しは鰻の味がすると書いています。
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