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江戸の人々にとって、てんぷらはすしと並んで屋台店の食べ物でした。当時の屋台は簡単な屋根と柱のついた台で、担ぎ棒がついていて移動可能なものと、道傍やあき地などに置いて、不用な時には他に移すものとがありました。 |
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三田村鳶魚によると、江戸の街頭にてんぷら屋の屋台店が出始めたのは天明5年(1785)ごろといいます。
てんぷらは油で揚げるために煙やにおいが出るので、換気のためには屋外の屋台の方が便利だったようで、『守貞漫稿』(1853)には、てんぷらは自宅で売る場合にも、家の前に屋台を置いていたとあります。店舗を構えたてんぷら屋が出来たのは、嘉永(1848-54)のころのようです。 |
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屋台店のてんぷらの材料は、『守貞漫稿』には、あなご、芝えび、こはだ、貝の柱、するめなどとあり、ころもは、うどん粉(小麦粉)を水で溶いたものでした。現在は精進揚げと呼ぶ野菜のてんぷらは、単に揚げ物と呼んでいたようです。揚げ油はおもに胡麻油が使われていました。 |
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屋台のてんぷら屋を当時の風俗画などで見ると、立ち食いに便利なようにてんぷらは串刺しで、客は共通の深鉢の中のつけ汁(天つゆ)に、串刺しのてんぷらを突っ込んでから食べていたようです。
上の図のてんぷら屋の台の上にも、串らしいものと、深鉢が一つ見えます。 |
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