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金龍山浅草寺は通称浅草の観音さまとして、いまも参詣の人々で賑わっていますが、江戸時代にも庶民信仰の霊場として親しまれ、また広い境内には楊枝(ようじ)店、茶屋などの店が多く、観音堂西側の奥山(おくやま)では、見世物や曲独楽(きょくごま)などの興行も行われて、江戸随一の盛り場でした。とくに12月17日、18日は正月用品を売る歳の市で混雑しました。 |
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上の絵は浅草寺の山門で、慶安2年(1649)に建立され、左右に仁王像が奉安されて仁王門と呼ばれていました。昭和20年に戦災で焼失して昭和39年に再建され、寺宝などを収蔵しているので、現在は宝蔵門と呼ばれています。絵の中央には門の向うに観音堂が見えて現在と同じような光景です。
有名な雷門は浅草寺の総門で、右に風神、左に雷神をまつるので、正式の名は風雷神門(ふうらいじんもん)といいます。
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『江戸名所図会』(1836)には、浅草寺境内で売っている物を数多くあげていますが、食べ物には浅草餅、香煎、浅草海苔があります。NO.141で紹介した『下級武士の食日記』をみると、紀州藩士酒井伴四郎は、万延元年(1860)5月末に江戸勤番となって間もない9月20日に浅草観音へ参詣して浅草餅を食べています。『日本国語大辞典』には浅草餅はきなこ餅とあります。『江戸繁昌記』(1832)には金龍山もちとあって、東洋文庫本では浅草餅とも呼び「餅白餡甘黄粉新」と注にあります。
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現在仲見世で営業している金龍山浅草餅本舗を訪ねてみましたが、年末年始は他の商品で忙しく作っていませんでした。現在は丸めた餅にあんをつけたものですが、戦災で昔の記録を失ったので正確なことはわからず、きなこ餅だった可能性もあるというお話でした。
来年の1月20日過ぎには浅草餅を作るそうですので、今から楽しみにしています。
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