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鰹節製造の図
出典『日本山海名産図会』寛政11年(1799年)刊。
著者平瀬補世、画師蔀関月。
右端では生切りした鰹を籠に入れ大釜で煮ており、中央では水で冷し小骨をとり、左の方では竹簀の蒸籠に並べています。燻乾とかび付けは図では見えません。
 江戸で初物が珍重された鰹は、縄文時代から食用とされましたが、当時は生食よりも干して食べていたようです。鰹の語源も、干すと堅くなるので「かたうお」とよび、略して「かつお」になり、堅魚(かたうお)から鰹の字が出来たともいわれています。
 
 堅魚は初めは鰹を縦割りにして生のまま干したものでしたが、奈良時代には煮てから干した煮堅魚が作られ、その煮汁を煮詰めた堅魚煎汁(かつおいろり)は、調味料として用いられました。堅魚や煮堅魚は削り物として食べていました。
 鰹節は室町時代には作られていたらしく、『四条流庖丁書』『庖丁聞書』などの室町時代の料理書には、調味に用いられた鰹と、料理の上置きに用いた花鰹があります。花鰹は花びらのように薄く削ったもので、煮堅魚ではもろくて薄く削れないので、燻乾(くんかん、燻して干すこと)を経た鰹節と考えられます。室町末期から江戸初期までは、鰹節は鰹と鰹節と両方の名でよばれていました。
 当時の鰹節は、生(なま)切りした鰹を煮て燻乾した現在の荒節(あらぶし)に相当するものでしたが、その後荒節の表面を削って形を整えた裸節(はだかぶし)が作られ、さらに享保(1716-36)のころから、かび付け法が行なわれて、現在の鰹節に近い製品が作られるようになりました。
 江戸時代には鰹節は「勝男武士」に通じるところから縁起のよいものとして祝儀に用いられ、料理にはだしとして欠かせないものになりました。だしのとり方も工夫され、削り節を布袋に入れて使う方法も行なわれていました。
 監修・著 松下幸子千葉大学名誉教授
>>松下教授プロフィール
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