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この絵は、天保14年(1843)から50年余り、江戸の猿若町(現在の台東区浅草6丁目)で繁栄した芝居風俗を描いた版画27枚の中の1枚で、1枚ずつ版行されたあと、全部まとめて冊子にもされています。
食べ物屋が描かれているのはこの1枚だけで、庶民に人気のあった二八そばの屋台が市村座の前に出ています。
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絵の説明には「風聞きゝ(ふうぶんきき)」とあって「芝居の打出し後、其座の表へ芝居好きの人三々五々集り、狂言の筋役の当否(よしあし)を語り合ふを、芝居より人を出し此(この)評を聞かせて、訂正する事あり。堺町ふきや町頃には、江戸橋、親父橋辺りへ人を出し、帰り客の評判を聞かせたるよし」とあります。
終演後の芝居小屋の前で、見たばかりの芝居について話し合う芝居好きの人々の評判を、興行者側の人が聞き集めて、芝居をよりよく訂正したということのようです。
なお、堺町ふきや町は、猿若町に移転するまで芝居町があった所で、現在の日本橋人形町の辺です。
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二八そばの屋台の横には、丼を持ってかけそばを食べている人が見えます。かけそばの元は「ぶっかけそば」で、『蕎麦全書』(1751)には「ぶっかけそば始りの事」として、要約次のように書かれています。
「江戸の新材木町に信濃屋という小さなそば屋があり、この辺は労働者が多いので、立ちながら食べられるように、丼にそばを入れてそば汁をかけ、ぶっかけそばとして売り出したのが元祖である」
この頃までは、そばはそば汁(そばつゆ)をつけて食べるのが普通でした。「ぶっかけそば」が「かけそば」とよばれるようになったのは寛政元年(1789)頃からのようです。
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