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双筆五十三次 平塚 安政元年(1854年)
歌川豊国(三代)・歌川広重画 国立国会図書館所蔵
 
 東海道五十三次とは、江戸時代に江戸日本橋から京都三条大橋までの、東海道に配置された53の宿場をいいます。
 平塚は江戸を出てから15里30町(約62km)、前の宿場藤沢と平塚の間には、渡し舟で渡る馬入川
(ばにゅうがわ)、現在の相模川があります。
 当時の旅人が1日に歩く距離は、男は10里(約39km)、女や老人で8里(約31km)だったといいますから、平塚は足弱
(あしよわ)の旅人には第2泊目の宿場でした。
 
 宿場には参勤交代の大名行列のための本陣や脇本陣のほかに、一般の旅人のための旅籠や木賃宿がありました。旅籠は朝晩の食事付きの宿屋で、木賃宿は薪を買って自炊をする宿屋でした。
 宿泊費は江戸後期で上等の旅籠で最高300文(現在の約3000円)くらい、一番安い旅籠で100文(約1000円)くらいだったようです。木賃宿は薪代を別にして素泊りで50文(約500円)から60文(約600円)とあります。

 上の絵では2人分の膳と飯櫃(めしびつ)を運んでいますから旅籠のようです。
 膳の上には、飯椀、汁椀、皿の上に魚が1尾、その隣に平椀(煮物椀)、中央に香の物の小皿が見えます。旅籠の朝食は簡単なもので魚などは付きませんでしたから、これは夕食の膳でしょう。
 旅籠の夕食は、飯・汁・香の物のほか、皿に焼魚か煮魚、平椀(ひらわん)に野菜類の煮物というのが標準的な献立でした。普通この献立形式を、香の物も加えて「一汁三菜」と呼び、現在の私たちの日常の食事形式になっています。嘉永元年(1848)春の『伊勢参宮献立道中記』から1例をあげると、京都の旅籠の夕食は、皿に鰆(さわら)の煮付、平椀に百合根・ゆば・椎茸の煮物とあります。
 監修・著 松下幸子千葉大学名誉教授
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