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孝貞女鏡 徳女
玉蘭斎(歌川)貞秀画  『魚づくし』組本社刊
右上の文章は次のように書かれています。「孝女徳は大和国添(そふの)下郡竹内村の農夫の子也 十六歳のとき父疫痢を病(やみ)て 苦痛のうへ鰻(うなぎ)を食したきよしをいふ 徳女これを聞(きき) 求めんとすれども辺鄙(へんぴ)なるゆへ心に任せず もとより貧(ひん)なれば其價なきことを悲しめどもかひなし ある日前なる川にて水を汲みしに いかがしたりけん大鰻一つ桶に入る 悦び調(ちょう)じて父にすすめ 夫(それ)より水を汲む毎に鰻を得て父にすすめ 病速かに癒たりとなん」
書名に「孝貞女鏡(こうていおんなかがみ) 徳女」とあるように、孝行な娘の徳が、病気の父が食べたいという鰻が入手できず悲しんでいたところ、川の水を汲むと鰻が得られるようになったという話です。2007年1月のNO.125の「二十四孝と鯉」で、中国の「二十四孝」の中の王祥の話との関連を書きましたが、本稿の孝女徳の話は「二十四孝」の中の姜詩(きょうし)の話と似ています。中国の『全相二十四孝詩選』が、日本に南北朝以降に伝来し、和訳されて「二十四孝」として室町中期以後広く知られるようになりました。江戸時代初期に、室町時代の短篇の物語草子を23篇集めた『御伽草子(おとぎそうし)』が出版され、この中に「二十四孝」が含まれています。
『御伽草子』の翻刻本は岩波文庫にあり、その中の「二十四孝」の姜詩の話は要約すると、「母に孝行な姜詩は、母が江(え)の水を飲みたがるので、妻に六、七里遠くにある江の水を汲みに行かせ、母が生魚の鱠を欲しがるので魚の鱠をよく作っていた。ある時姜詩の家の傍に江のように水が湧き出し、朝毎に水中に鯉がいた。このような不思議は夫婦の孝行への天道の恵であろう」とあります。
この絵の刊行は天保年間と考えられますが、当時幕府は忠孝の教導に力を入れ、孝女に褒賞を与えたりしています。
 監修・著 松下幸子千葉大学名誉教授
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