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絵の題に「洲崎汐干図」とありますが、江戸時代には潮干狩を汐干狩と書いています。
江戸の汐干狩の名所としては『東都歳事記』(1838年刊)に「芝浦・高輪・品川沖・佃島沖・深川洲崎」とあり、この絵の洲崎は海の景色から見て品川の洲崎のようです。嘉永3(1850)年刊の尾張屋版の『江戸切絵図』で見ると、「高輪辺絵図」の品川宿の下の海岸に洲崎の地名があります。
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嘉永6(1853)年に、ペリー艦隊が浦賀に来航した時に、幕府は江戸の防衛のために品川沖に5基の砲台を設け、品川台場とよびました。海を埋め立てて台場を築くために、桜の名所御殿山の一角を崩し、汐干狩の名所品川の海の景観も失われました。
この絵を描いた国貞は、弘化元(1844)年に師の豊国名を継いでおり、また極印から見てもこの絵は天保13(1842)年以前に描かれたもので、品川沖の景観を見ることができます。
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近景に大きく描かれているのは、漁師のほか魚を買おうとしている男性3人と、通りがかりらしい女性2人で、男性の1人は魚籃(びく)から飛び出した(えい)にぶつかり転んでいます。魚籃の下にも飛び出した鮃(ひらめ)が見えます。「左ヒラメの右カレイ」というようにこれは鮃ですが、江戸時代中期頃までは鮃と鰈(かれい)の区別が明確でなかったらしく、『物類称呼』(1775年刊)には「かれい・ひらめ、畿内西国ともにかれいと称す。江戸にては大なる物をひらめ、小なるものをかれいと呼ぶ。然れども類同じくして種(しゅ)異なり」とあります。
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江戸の汐干狩の適期は旧暦3月で、この時期には大潮といって潮の干満の差が大きく、早朝に船で沖合に出て、正午頃に潮が引いてから船から降り、貝を拾ったり引き残った潮だまりで魚をとったりして楽しみました。
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