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江戸名所日本橋
歌川広重画 『魚づくし』組本社刊
 絵の中央には遠景に富士山、右手には江戸城、そして日本橋の上を行き交う振売(ふりうり)の多くは魚屋で、近くにある魚市場を示しており、江戸を象徴する日本橋の景観が描かれています。
 「東洋文庫本」の寺門静軒の『江戸繁昌記』(天保3年刊)には「日本橋魚市(うおいち)」として魚市場の活況が詳細に記述されています。江戸時代は日本橋にあった魚市場(魚河岸)は、関東大震災後に築地の中央卸売市場に移り現在に至っていますが、移転計画もあるようです。「東洋文庫本」の魚市場の注には、その歴史がわかりやすくまとめられているので、そのまま次に引用します。
 「魚市 魚河岸の魚市場。日本橋と江戸橋との間の北岸一帯の地には魚問屋・魚仲買・汐待茶屋・各種飲食店などが櫛比し、遠近から運送して来る魚類を販売し、日夜賑やかな市場をなしていた。市場は本船町・小田原町・安針町・長浜町・室町の各町にわたっていた。この市場の起源は、天正十八年摂津国西成郡佃村の名主森幸右衛門に引率られて江戸に下った漁夫等三三名は、小網町辺に住居して漁猟を営み、幕府御膳所御用を勤めることになった。慶長年間、幸右衛門の孫九右衛門の時、献上残りの魚をこの地で市販することを許されたのが、市場の起源というべく、元和二年には大和田助五郎という者が、本小田原町に来往して更に市場を開き、市場は拡大し、業者も増加し、本船町組・本小田原町組・安針町組・本船町横店組などの組合の結成をみるまでになった。」
 橋の中程に大きな魚を天秤棒で前後に担いだ振売が見えますが、魚は鮪のようです。今年1月5日の築地市場の初競りで、222キロの本鮪が1億5540万円で競り落とされて話題になりましたが、江戸時代の鮪は下等な魚でした。江戸時代後期には、江戸では初鰹が珍重され、驚くような高値でした。
 監修・著 松下幸子千葉大学名誉教授
>>松下教授プロフィール
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