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江戸時代の両国の夕涼みについては、錦絵もいろいろあって、既に3回程とり上げています。この絵には「東京両国夕涼図」とあり、絵師は豊原国周(くにちか)です。国周は天保8年(1835)に生まれて、明治33年(1900)に歿していますから、この絵は明治中ごろのものと思われます。
明治時代の東京の年中行事については、若月紫蘭著『東京年中行事』(明治44年刊)があり、平凡社の「東洋文庫」として覆刻されています。内容は月別に東京で行われる行事を列記して詳述しており、八月暦の中に「両国川開(かわびらき)」があります。
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「両国川開」では明治44年8月の川開きについて詳細に書かれており、明治中ごろと考えられるこの絵よりも時期が後になりますが、江戸時代との違いがよくわかります。
要約してみると「江戸時代の川開きは5月28日で、8月28日まで3ヶ月の間、大川には納涼船が数多く出て、花火も打ち上げられたが納涼が主であり、花火が終ってからも納涼を楽しんでいた。今の川開きは花火が主になって、花火が終ると船は川岸に戻ってしまい、夕涼みの風情がない。」「4時に花火が1発打ち上げられると大勢の人が隅田川を目ざして集り、両国の鉄橋の上は電車が通行止になり警官が交通整理をしている。」
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両岸の料理屋については、次に原文を引用します。「次第に暮れかかる程に、ドンドンと花火が打揚げらるる程に、何時しか両岸の柳光亭、亀清(かめせい)、深川亭、生稲(いくいね)、福井楼なんど言う料理店には、パッと電気がともる。軒端に吊った紅白の球燈、色々の幔幕が微風にゆらゆら揺れる。」エジソンの発明した電燈が世の中に紹介されたのは明治12年、鹿鳴館がガス燈を電燈に代えたのは明治18年ですから、大川端の料理屋に電燈がともるのは、明治もなかば過ぎだったようです。
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