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木曽街道六十九次の内 柏原
歌川広重画 国立国会図書館所蔵
 絵には「木曽街道六十九次の内 柏原」とあります。五街道の一つ中山道(なかせんどう)は、民間では中仙道と書き、信濃国の木曽路を通るので木曽街道とも呼ばれました。
 中山道は江戸の日本橋から板橋宿を経て武蔵・上野(こうづけ)・信濃・美濃・近江の五ヶ国を通り、京都に入るので山城国も加わります。京都の手前の草津と大津は東海道と重なり、江戸から京都まで69の宿場があるので、中山道(木曽街道)五十九次といいます。距離は江戸から京都まで135里34町8間でした。
 柏原は現在の滋賀県にあり、岐阜県境に近い中山道の宿場でした。絵の右側の店に薬艾(もぐさ)とありますが、柏原は伊吹山地の南麓にあり、伊吹艾で知られていました。艾は「燃え草」の意味といわれ、干したヨモギの葉の裏にある毛だけを集めて作った綿状のもので、灸(きゅう)をすえる時に使います。『日本山海名物図会』(1754)に「伊吹山は近江、美濃両国にかかりたる大山なり。和薬おおく出ず。中にももぐさ名物也」とあります。
 絵の左側の店は亀屋で「酒さかな」の看板があり、店の中に金時の人形が見えます。金時は源頼光の四天王の1人坂田金時のことで、金太郎とも呼び、これをかたどった人形は現在も知られています。右側の店には福助の人形があり、童顔の大頭で上下(かみしも)をつけて座っている福を招く縁起人形ですが、現在はあまり見られないようです。
 柏原には名物の食べ物はなかったようですが、近くの宿場醒ヶ井(さめがい)の醒ヶ井餅は有名で、地方の名物料理をまとめた『料理山海郷』(1750)に、近江醒井餅として概略次のような作り方があります。「極上の餅米で餅を作り、薄く切って藁であんで陰干にしたもの」で、平凡なかき餅のようですが、名水で知られた醒ヶ井の水で作ったので味がよく、名物になったものと思われます。
 監修・著 松下幸子千葉大学名誉教授
>>松下教授プロフィール
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