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東京では、すしの主流は江戸前握りずしですが、大阪ずしといえば、一般に箱ずし(押しずし)を指します。福本ずしは江戸時代の大坂の箱ずしの元祖のような存在でした。
『守貞謾稿』(1853)の巻の六には次のような記述があります。「文政末か、大坂心斎橋通大宝寺町南に福本といふ鮨店を開く。柿鮨(こけらずし)の鶏卵・鮑・鯛等を厚く二分ばかりにしてこれを売る。大いに行はれ、衆争ひてこれを買ふ。これ従来の製は極めて薄きを用ひし故なり。同価にて初めて肴(さかな)を厚く、味よき故に大いに行はれ、たちまち他店にてこれを擬製するあれども、大いに行はれず。けだしこの店ありて後、京坂の鮨店改革してこれと同じなり。鮨製一変す。」
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『守貞謾稿』の後集巻の一にも、ほぼ同じ記述がありますが、福本の開店を天保初め頃としており、文政末から天保初め頃の開店と考えられます。
柿鮨は箱ずしの1種で、薄く切った魚肉・貝肉・椎茸・卵焼きなどを、柿葺(こけらぶき)(薄い木片のこけら板でふいた屋根)のように、箱型の枠に詰めたすし飯の上にのせて重しで押したすしです。『名飯部類』(1802)によると、上にのせる具は上等には鯛・鮑・松菜、中等から下等は赤貝・みつばなどで、薬味は蓼(たで)・山椒・生姜を用いるとあります。
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吉野曻(ます)雄著『鮓・鮨・すし』(1990)には、その後の「福本」について次のようにあります。「天保2年(1831)創業の大阪ずしの店蛸竹のご主人・故阿部直吉翁が語られたところによると、福本は明治24年(1891)に福ずしと代替りし、その後松島に軒店(のきだな)を出したが、永続きしなかったという。現在、心斎橋筋・大丸裏で盛業中の本福寿司は、代替りした福ずしである」。福本ずしは明治24年に経営者がかわって、福ずしになったようです。 |
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