|
絵に「堂しま米あきない」とありますが、江戸時代に大坂の堂島にあった米市場の光景です。
江戸時代には、農民は生産した米の大部分は年貢として領主に納め、自分で自由に食用とすることはできませんでした。領主は農民から年貢として得た米の一部を家臣に支給し、残りは藩内の米商人へ売ったり、江戸や大坂などの蔵屋敷へ運んで換金しました。蔵屋敷は幕府や諸大名が、年貢米や国産物を販売するために設けた倉庫兼取引所です。大坂は江戸よりも活気のある商取引が行われて「天下の台所」といわれ、諸大名は大坂に蔵屋敷を設け、全国から米が集まりました。
|
|
享保15年(1730)には堂島帳合米(ちょうあいまい)市場ができて、天満(てんま)の青物市、雑喉場(ざこば)の魚市とともに、堂島の米市は大坂の三大市場になりました。帳合米市場は帳簿に記入するだけで取引が行われるもので投機取引であり、人為的な相場で全国の米価を平準化する役割を持っていました。
|
|
享和2年(1802)に大坂で出版された『名飯部類』は米料理の専門書ですが、その中の骨董(ごもく)飯の記述に堂島米市の名があります。骨董飯は鮑(あわび)・焼玉子・椎茸・三つ葉・芹などを混ぜた現在の五目飯ですが、供する時にだし汁をかけ薬味を添えています。この骨董飯を大坂の堂島ではすくひ飯と呼んでいるのは「是堂島は諸国米穀の交易価格(そうばをたてる)の地にして売買利運をすくふといふ」からで、おめでたい名としてすくひ飯と呼ぶとしています。
『名飯部類』には混ぜる食材によって87種の飯の作り方がありますが、魚鳥などの油濃い品を加える時は、軽い味の加賀・柴田・村上などの北国米を用い、菜や豆などの淡薄な味の品を加える時は、厚味でうま味のある肥後・筑前などの西国米がよいなどの記述もあります。
|
|
|