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東海道五十三次の旅では、渡し船を必要とする所があり、舞坂宿と新居宿の間の浜名湖を横断する「今切(いまぎれ)の渡し」と、宮宿と桑名宿の間の伊勢湾をわたる「七里(しちり)の渡し」でした。七里の渡しは、7里(約27キロ)の航路ですが、干潮の時には船が進むことのできる深さの沖を迂回(うかい)するので、10里(約39キロ)の渡しになり、3時間以上もかかったといいます。
『東海道中膝栗毛』には、七里の渡しについて次のようにあります。「翌日は宮から桑名まで七里の海上を船で行く。船のまわりにはあきない舟が漕ぎよせて「酒飲まっせんかいな。名物蒲焼の焼きたて、団子はよいかな。奈良漬で飯喰わっせんかいな」と呼びかける。浪風もなく順風に帆をあげて船は桑名に着く。」
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上の絵の帆をあげた渡し船の手前の小船は、酒や蒲焼などを売る商い船のようです。渡し船の行く先には城が見え、桑名は松平越中守11万石の城下町でした。桑名藩の米蔵の出納役の下級武士渡部平太夫の書いた『桑名日記』は、天保10年(1839)から嘉永元年(1848)までの約10年間、公私にわたる日常生活を克明に記したもので、下級武士の食生活の資料としても貴重なものです。東海道の旅とは関係がありませんが、一部を紹介しましょう。
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注目されるのは牛肉を食べている記述です。要約すると「天保10年12月7日に牛肉200文分を入手し、9日夜に孫に煮てやると大喜びで食べる。10日夜にも食べさせ、11日は朝からせがまれて煮てやる。12日の夕方もねだるので煮てやる。」7日から12日までの牛肉の部分だけをまとめましたが、冷蔵庫のない時代の牛肉の保存方法が気になります。江戸時代には獣肉食は表向きは忌避されていましたが、薬喰いと呼ばれたように、庶民の間では美味で体によいものとされていたようです。 |
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