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東海道五十三次の内 小田原の図
歌川国貞(のちの三代目歌川豊国)画 国立国会図書館所蔵
 この小田原の図は、酒匂川(さかわがわ)の川越(かわごし)の光景と、遠くに小田原の宿場と険しい箱根の山々を描き、手前に料理と女性を配置しています。
 大磯からの東海道は、酒匂川を渡って小田原に入りますが、酒匂川は川越で渡りました。街道で橋や船のない大川を旅人が渡る時に、人足が輦台
(れんだい)や肩車などで渡すことを川越といい、東海道では酒匂川のほか、興津川・安倍川・大井川などが川越で、大井川が最も有名でした。
 絵の中で向う岸に近いところで4人で担いでいるのが輦台で、簡単なものは板に担ぎ棒2本を取り付けただけのものでした。川の手前の方で駕籠のまま輦台で大勢の人足に運ばれているのは、身分の高い人のようです。川の中程には肩車も見えますが、肩車は平常で48文くらい、水量が増すと70文、80文と値が上がり、輦台は4人で担ぐので4人分の賃金でした。
 台の上の料理は、大皿は刺身のようですが、深鉢と蓋物は何でしょうか。当時の小田原名物の食べ物は、外郎(ういろう)、梅漬のほか、相模湾でとれる魚介類を原料にした蒲鉾、鰹のたたきなどでした。
 蒲鉾は魚のすり身に、調味料やでん粉を加えて練り、いろいろに形づくり加熱して作ります。室町中期からあり、初めはすり身を細い竹に塗りつけて焼いた竹輪状で、蒲
(がま)の穂に似ているので蒲穂子、また蒲の穂は鉾に似ているので蒲鉾とよびました。板付蒲鉾は桃山時代から作られ、初めは焼いており後に蒸すようになりました。上方では蒸してから焼き、江戸では蒸しただけが多かったようです。
 鰹のたたきは、現在は火であぶってからつくる刺身を連想しますが、当時は鰹の塩辛のことでした。『江戸語の辞典』にも「鰹の腸に塩を加えて叩いたもの。土佐の料理法とは異なる」とあります。

 監修・著 松下幸子千葉大学名誉教授
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