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名所江戸百景 日本橋雪晴
歌川広重画 安政3年(1856) 国立国会図書館所蔵
 「日本橋雪晴」は、広重の『名所江戸百景』の巻頭の絵です。日本橋は全国に通じる五街道の起点であり、江戸の商業の中心地でした。日本橋の向うの右手には江戸城が、遠くには富士山が見えます。右下には魚市場があり、日本橋の下を流れる日本橋川には押送船(おしおくりぶね)が3艘、魚を運んできたところです。押送船は常陸・房総・伊豆などから生魚を魚市場に運んでくる、7挺(ちょう)の櫓(ろ)で走る快速の船のことです。
 「お江戸日本橋七つ立、初上り。あゝこりやこりや。行列揃へて、あれわいさのさ、こちや、高輪、夜明けの、提灯消す。こちやえ、こちやえ。」これは道中唄の「上り唄」の第一節で、鈴木晋一著『たべもの東海道』から引用したものです。「上り唄」は東海道五十三次の宿場の名と名物や名所を詠みこんで江戸から京都まで18節あり、「下り唄」は京都から江戸まで18節あり、同書には全文が掲載されています。この道中唄には江戸後期の庶民の旅姿がうたわれていて、『東海道中膝栗毛』の弥次・北を連想させます。
 道中唄に「お江戸日本橋七つ立」とありますが、七つは現在の時刻で午前4時頃ですから、暗いうちに出発し、高輪辺で夜が明けたようです。江戸から京都まで約126里あり、男性は1日に約10里、女性は約8里歩くのが標準で、1里は約4kmですから、江戸の人々は健脚だったのでしょう。
 当時の旅の心得の中に「一、道中いたし候てまめ出る時には、豆腐、からしと煙草の吸い殻を飯にまぜてつけてよし。一、足ほてる時には、塩もみ付けるよし。焼酎を吹きてよし。」というのもありますからそれなりの苦労もあったようです。

 高輪大木戸を出て品川宿を過ぎた鮫洲
(さめず)の料理屋で、旅人は見送り人と別れの盃をかわしたりして、次の川崎宿を目ざしました。
 監修・著 松下幸子千葉大学名誉教授
>>松下教授プロフィール
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