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絵には「梅王女房はる」とあり、左上の梅の囲みのなかには梅王丸が、三代目坂東三津五郎の似顔で描かれています。NO.91で「桜丸女房八重」の絵を紹介しましたが、次回の「松王丸女房千代」の絵と合わせて、3枚組の揃い物の1枚です。
「菅原伝授手習鑑」の四段目に、松王丸、梅王丸、桜丸の三つ子の兄弟の父白太夫(しらだゆう)の70歳の賀の祝の場面があり、3人の嫁が白太夫の家に来て祝膳の支度をします。この絵では梅王丸の女房はるが、左手に手ぬぐい、右手に桶を持っています。
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賀の祝の舞台の台詞(せりふ)から推定される祝膳の献立は「雑煮(餅・大根・芋・上置に昆布)、鰹鱠(かつおなます)、浸し物(たんぽぽ)、みそ汁(嫁菜)、飯」ですので、はるの持つ桶の中身は米のようです。調べてみると江戸時代には、直系30-40センチで深さ15-20センチほどの洗い桶のほかに、深さ30センチほどの米とぎ桶があったようです。明治以降にも使われていたらしく、『日本国語大辞典』にも米磨桶(こめとぎおけ)の項目があり、米をとぎ洗うのに用いる桶としています。といだ米を入れて水を切るのに用いる米揚笊(こめあげざる)もありますから、はるはこれから井戸端へ米をとぎに行くところと思われます。
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江戸時代の炊飯法には焚乾(たきぼし)法と湯取法がありました。焚乾法は炊き上がった時に、炊き水が完全に飯に吸収されるように、定量の水を加えて炊く現在と同じ炊飯法です。湯取法は焚乾法より水を多くして加熱し、大体やわらかくなったらざるに上げて炊き水を捨て、またもとの釜に入れて弱火で炊き上げるか、蒸器に入れて蒸す方法で、病人に適する飯として作られていました。
江戸時代の料理書には炊飯についての記載は少なく、『名飯部類』(1802)だけが、米料理の専門書として知られています。
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