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『恋女房染分手綱(こいにょうぼうそめわけたづな)』は、人形浄瑠璃として寛延4年(1751)2月に大坂で初演され、7月には歌舞伎狂言として江戸で初演されています。この絵は十段の「重の井子別れ」で、乳人(めのと)重の井が九代目市川團十郎、じねんじょの三吉は二代目尾上丑之助(のちの六代目尾上菊五郎)です。
錦絵の解説には上演年月日は明治25年(1892)5月とあり、絵師名の梧斎(ごさい)は月岡芳年の門人右田年英(としひで)の号で、明治後期に歴史画・風俗画・役者絵などを描いています。
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「重の井子別れ」の粗筋は、丹波国油留木家の息女調姫(しらべひめ)が、輿入れのため重の井などを供に東国への旅に出て、水口の宿で姫が東国へ行くのをいやがったので、門前にいた子供の馬子の三吉を呼んで道中双六をさせたところ姫の機嫌がなおり、その褒美に重の井が菓子を持って現われます。三吉の守り袋などから、いろいろの事情で手離したわが子であることがわかりますが、乳人としての役目があり、母子は悲しい別れをします。
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重の井が左手に持っている高杯(たかつき)の菓子は花の形をしており、打ち物の落雁のように見えます。落雁は干菓子の1種で、もち米などの穀物を煎ってから粉にした煎り種に、砂糖や水飴などを加えて練り、型に入れて押し固め乾燥させて仕上げたものです。材料の穀物の種類によって麦落雁・豆落雁・栗落雁などがあります。
落雁の名の由来は、白い上に黒胡麻が散っているのが、雪の上に雁が降りた(落ちた)風情に似ているから、また中国の菓子名の軟落甘(なんらくかん)の軟を略したものなど、諸説があります。落雁は江戸初期からあったようですが、後期には美しい豪華な意匠の木型が作られ、鶴・亀・松竹梅・桜・牡丹・菊などの落雁が、供物や贈答品として広く用いられていました。
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