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「唐人卓子の図」には益屋板と版元の名があるだけで、その他のことはわかりませんが、唐人はおもに中国人をさす名称です。手前の向うむきの男性の細長く後ろに垂らした髪型は弁髪(べんぱつ)というもので、もとは満州人の習俗でしたが、清朝時代に中国全域で行われました。
卓子は食卓のことで、食卓にのせて供する料理をさし、卓子料理、食卓料理、卓袱料理とも書き、どれも「しっぽくりょうり」と読みます。卓子料理は江戸時代に長崎に伝えられた中国料理で、精進の卓子料理は普茶(ふちゃ)料理と呼びました。
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卓子料理について記述した江戸時代の料理書を年代順にあげると次のようなものがあります。
(1)『八遷卓燕式記』(1761)、(2)『新撰会席しっぽく趣向帳』(1771)、
(3)『普茶料理抄』(1772)、(4)『卓子式』(1784)、(5)『新編異国料理』(1861)
このほか八百善主人の書いた『料理通』の4編には、普茶料理・卓子料理があります。
このなかで『新編異国料理』には上の図と似た挿絵が多く、異色の料理書です。
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『新編異国料理』には饗応の仕方や茶・酒の製法、料理の作り方もあり、肉饅頭、熊掌の料理法、臘乾(らかん・ハムのこと)の製法まであります。餃子の作り方は「麦粉を水にてかたくこね、棒にて薄くのべ、経(わた)り三寸ほどづつに丸く取て、肉に猪肉(ぶたにく)を糸作りにして、椎茸葱を細く切まぜ、右の皮にて包み蒸籠にて蒸用ゆる」とあり、蒸餃子ですが現在のものとほぼ同じです。
実はこの本は寛政年間に長崎奉行を勤めた中川忠英が、部下に命じて長崎に来た清国人から清国の風俗について聞きとり調査をした記録『清俗紀聞(しんぞくきぶん)』(1799)の巻4の飲食の部を書き写したような料理書です。210年ほど前の長崎奉行の調査は食文化の貴重な史料になっています。
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