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上の絵は、飲食物が体内に入ってからの経過を示す啓蒙のための絵で、もう1枚の「房事養生鑑(ぼうじようじょうかがみ)と対になって流布したようです。絵師も刊行年もわかりませんが、絵の中にある燗徳利は文政年間(1818-30)以降に普及したものですから、江戸末期のものと思われます。手前の皿の上の鯛には筆生姜らしいものが添えてありますから姿焼のようですが、頭が人物から見て右側になっているのが気になります。
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日本の最古の医書は平安時代の『医心方(いしんぽう)』で、大陸伝来の医学をまとめたものです。鎌倉時代には医学も僧侶の手に移って栄西の『喫茶養生記』などがあり、室町・安土桃山時代には明に留学した医師が多く、天文12年(1543)にポルトガル人が種子島に漂着して後、南蛮人(ポルトガル人・スペイン人)によって天主教と南蛮医学が輸入されました。江戸時代に入り三代将軍家光のとき鎖国体制になってから安政5年(1858)に鎖国が終わるまで、長崎を門戸としてオランダ人によって紅毛医学が伝えられ、安永3年(1774)にドイツの『解剖学図譜』のオランダ訳から杉田玄白等によって邦訳された『解体新書』が刊行され、内蔵学が導入されました。
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『和漢三才図会』(1712)の巻三経絡部には銅(胴)人形の図があります。胴部に取り外しできる内蔵の模型が入れてあるもので、製作の専門家もいて売薬屋の店頭に飾られていたといいます。模型に記入された臓器の名称は、中国伝来の「五臓六腑」(五臓は肝・心・脾・肺・腎、六腑は大腸・小腸・胃・胆・膀胱・三焦)の考え方によっており、上の錦絵の名称もほぼ同じです。
見原益軒の『養生訓』(1713)には「飲食すれば脾胃まづ是をうけて消化し、其精液を臓腑におくる。臓腑の脾胃の養をうくる事、草木の土気により生長するが如し。」とあります。
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