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「女礼式略図」の絵師楊洲周延(ちかのぶ)は、75歳で大正元年(1912)に歿した人で豊原国周の門人、明治の風俗のほかに江戸時代の風俗を多く描いています。周延にはこの絵と類似の「女礼式給仕之図」があり、また「千代田の大奥」という錦絵もあるそうですから、この絵は江戸時代大奥の食事を供する礼法を教えるもののようです。
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並べられている膳は懸盤(かけばん)で、『守貞謾稿』(1853)にも貴人の用いるものとありますから、床柱の前の女性は御台所(みだいどころ)として描かれているようです。『大奥のすべて』(山本博文)には御台所の食事について次のように書かれています。
「朝の食事は五つ(午前8時頃)に召し上がります。給仕をするのは御中臈(おちゅうろう)です。朝は二の膳付きでした。本膳は、ご飯にお汁に御平(おひら)、腰高、膾皿の三菜、二の膳は豆腐や卵などの汁が付き、そのほかに鯛の焼物などの魚が付きました。随分なご馳走ですが、魚などは御中臈がむしって差し上げたのを一、二箸食べるだけでした。」
御中臈は御台所の身のまわりの世話をする人、御平は平椀で煮物用、腰高は腰の高い器です。上の絵も本膳の右に二の膳があり、献立も前述のものとほぼ同じに見えます。
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『小笠原諸礼大全』は文化6年(1809)の序のある作法の専門書で、食べ物関係の作法についても書かれています。「飲食の事」の中の飯と汁の食べ方は次のようなものです。
「食するはじめまづ右の手にて飯椀の蓋を取左の手へ移し膳の左の方に置汁椀の蓋を取事前に同じ。さて箸を取上げ直に持その手にて飯椀を取上左の手へ移し二箸飯を喰下に置又右の手にて汁椀を取あげ是も左へ移し汁を吸ひ右の手にとりて下に置又右のごとくに飯汁を喰ひ汁の実を喰ひ左の手にて下に置さて膳に付たる菜(さい)を喰ふべし。」
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