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上の絵は横浜開港の安政6年(1859)の翌年、万延元年の横浜本町の光景です。行き交う人々の中には、ズボン姿の外国人が数人おり、弁髪(べんぱつ)の中国人も2人見えます。中央の2台の荷車に山積みの品物は、当時総輸出額の約80パーセントを占めていたという生糸のようです。道の両側には商店が並び、天秤棒で荷を担ぐ魚屋もいます。
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開港後、幕府は外国人居留地を建設し、数年の間に居留地には各国領事館、商社、銀行、教会、新聞社、個人住宅などが軒を並べました。ホテルやレストランも欧米人によって経営され、西洋料理も作られていましたが、利用者はおもに外国人で、日本人は貿易商や役人など限られた人々でした。
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日本での最初の西洋料理屋は、開港以前に海外に開かれた唯一の門戸であった長崎に安政4年(1857)に開業した「先得楼」「迎陽亭」「吉田屋」の3軒といわれています。数年後には「福屋」も開業し、文久3年(1863)には草野丈吉が「良林亭」を始め、明治10年には長崎市内に「自由亭」を開業しています。この「自由亭」は長崎市によってグラバー邸園内に移築され一般に公開されていて、私も見学したことがあります。建物のそばに「西洋料理発祥の碑」があり、次のような碑文が記されています。
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「わが国西洋料理の歴史は、16世紀中頃ポルトガル船の来航に始まり、西洋料理の味と技は、鎖国時代唯一の開港地長崎のオランダ屋敷からもたらされた。1800年代にいたり、横浜、神戸、函館などが開港され次第に普及し、更に東京を中心に国内に大きく輪を広げ、日本人の食生活に融和され現在の隆盛となった。ここに西洋料理わが国発祥を記念してこの碑を建てる。」この碑文のように、、横浜開港以前に、長崎には日本人による西洋料理店がありました。
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