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絵の題に「美盾(みたて)十二史」とありますが、左上の文章には申(さる)の与次郎とあり、題は「見立十二史」のもじりと考えられます。絵の人物は猿廻しの与次郎で、『近頃河原達引(ちかごろかわらのたてひき)』に登場します。この狂言は通称「堀川」といい、元禄期に京都で起こったお俊(しゅん)伝兵衛の心中事件と、堀川辺に住む猿廻しが、孝子として表彰された出来事などを素材にした芝居といわれています。
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与次郎はお俊の兄で、猿廻しで生計をたてており、この食事の場面も随分質素に見えます。足の低い膳(足付折敷)の上には箸と飯椀とおかずの皿があり、膳の右の浅い鉢には長い箸が見えますから取り分け用のおかずのようです。
与次郎の傍らには大きな飯櫃(めしびつ)がありますが、飯櫃は、めしつぎ、おひつ、おはちなどとも呼ばれ、自動炊飯器の出現以前には、炊いたご飯はすぐこのおはちに移し、食生活の必需品でした。
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庶民の日常の食事について『守貞謾稿』(1853)にはおよそ次のようにあります。「江戸では朝に飯を炊いて味噌汁とともに食べ、昼は冷飯で野菜か魚肉などの一皿を添え、夕飯は茶漬けに香の物を添える。京坂では昼に飯を炊き、煮物あるいは魚類または味噌汁など二、三種を添え、朝飯と夕飯には冷飯に茶、香の物を添える。」これを見ると与次郎の食事も一般的なもののように思われます。
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膳の左にある土瓶は、現在でも見馴れたもので、土瓶は蔓(つる)、急須は把手(とって)の違いはありますが、両方とも煎茶を入れて適温の湯を加え、茶汁を茶碗に注ぐ淹(い)れ方です。
江戸時代には、やかんや土瓶を火にかけて湯をわかし、その中へ煎茶を入れて煮出す方法も行われていました。絵には薪が燃えている火鉢がありますから、土瓶で煮出したお茶でしょうか。
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