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神名川横浜新開港図
歌川貞秀画 万延元年(1860) 国立国会図書館所蔵
 今年は横浜開港150周年にあたり、横浜では関連の催しがあるようです。上の絵は開港して間もない万延元年(1860)に描かれた横浜で、画面一ぱいに本町通り一丁目から五丁目までの賑わいが拡がっています。
 左端の三の文字が見える建物は三井呉服店の出店で、荷車に山のように積まれた白い荷物は、当時最大の輸出品だった生糸のようです。また左側の下の方には唐人飴売りがおり、荷を担ぐ行商人も何人か見えます。

 幕末の開港地横浜の風景や風俗を描いた版画は江戸の浮世絵師によって描かれ、横浜絵と呼ばれて800種余りも現存するそうです。

 横浜開港当時の歴史をまとめてみると、嘉永6年(1853)にペリーの率いるアメリカ艦隊が浦賀に来航し、黒船来航と騒がれました。その翌年にはアメリカと日米和親条約を結び、イギリス・ロシアとも和親条約を締結しました。安政5年(1858)にはアメリカ・イギリス・ロシア・オランダ・フランスと通商条約を締結し、安政6年(1859)に、神奈川・長崎・箱館(函館)の3港を開港し、欧米諸国との貿易の窓口にしました。神奈川に港を建設する際に幕府は横浜を選び、さらに外国人居留地を建設したので、横浜は国際都市として発展しました。
 日本への西洋料理の伝来は、天文12年(1543)の種子島へのポルトガル人の漂着以降、宣教師の渡来などによって、長崎を中心に南蛮、紅毛の料理として始まりましたが、本格的な伝来は開港後、明治になってからのことです。
 村岡実著『日本人と西洋食』(1984刊)によると、元治元年(1864)の横浜の外国人居留地には、4軒のホテル、2軒のイン(小型旅館)のほか飲食店もあり、レストラン、コーヒーハウス、パン屋なども開業しており、外国人がおもな利用客でしたが、幕末の横浜では既に本格的西洋料理がつくられていました。
 監修・著 松下幸子千葉大学名誉教授
>>松下教授プロフィール
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