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上の絵の左下には東叡山麓とあり、その左には料亭の名が書かれているようですが、この絵では見ることができません。東叡山は東叡山寛永寺のある上野台地で、西の麓には不忍池があり、不忍池の南の池之端仲町は、寛永寺の門前町として繁華な商店街で料理屋などもありました。寛永寺には徳川家の霊廟があり、江戸城の筋違御門から出た道は下谷御成街道と呼ばれ、下谷広小路を通って寛永寺境内に向かっていました。
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不忍池と中島の弁財天社が見える料理屋の座敷では、狂句合の集まりが終わったところらしく、酒肴が出て踊りをたのしんでいます。『江戸名所図会』(1836)によると、寛永寺創建の際に不忍池を近江の琵琶湖になぞらえ、竹生島(ちくぶじま)を模して中島を築いて弁財天社を建立したとあります。中島は初めは離れ島でしたが、寛文(1661-73)の末頃に道を築いて地続きになり、参詣が便利になりました。また不忍池には蓮が多く、夏の花の咲く頃は紅白咲き乱れて蓮見の客で賑わい、茶屋では蓮飯を出していました。
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蓮飯を江戸時代の文献で探してみると、『本朝食鑑』(1697)に荷葉飯(はすのはめし)があり、新しい荷葉に飯を包みよく蒸して食べるものとしています。料理書では『黒白精味集』(1746)に蓮飯として「蓮の巻葉を随分こまかにきざみ、菜飯のごとく塩少し入れ飯をたき、蓮の葉の大きなるへ釜より直にうつし包み、暫く置て出す也。よき飯也」とあります。
『料理伊名波包丁』(1773)の蓮飯は「蓮の葉をよくよく洗ひて米の上へ覆て蒸すべし。飯出来て後またほかの蓮の葉に移して暫く包み置べし」とあり、もう一つ蓮葉飯として『黒白精味集』と同様のものがあります。また『料理調法集』(1857)には「蓮葉をせんじ、その汁にてたく也」という蓮飯があり、多様な蓮飯があったようです。
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