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江戸名所百人美女 呉服ばし
歌川豊国(三代目)、歌川国久
画 安政4年(1857) 国立国会図書館所蔵
 日本橋平松町の魚仙は、江戸後期の料理屋として知られた店で、文久元年(1861)刊の見立番付「魚尽(うおづくし)見立評判会席献立料理通」にも、行司の1段下にその名が見えます。
 文久3年の江戸切絵図で見ると、日本橋から京橋へ向う日本橋通(現在の中央通)の南1丁目から2丁目にかけての東側に平松町があります。平松町の日本橋通を隔てた西側に呉服町があり、その先に外堀にかかる呉服橋があります。

 左上の枠内の絵には遠景に呉服橋があり、絵の中央下には魚仙の文字のある角形のはかまが見えます。このようなはかま(袴)は、いまはあまり見かけませんが、徳利を据えておくための台です。
 魚仙はその名のように新鮮な魚介類が豊富な店で、とくに生作が有名だったようです。日本橋北岸には魚市場(魚河岸)があり、幕府への納魚と江戸の魚商売の中心でした。日本橋の下流に隣接する江戸橋の近くには、幕府の「活鯛屋敷」があり、中には大きな生簀
(いけす)があったといいます。生簀はとった魚を生かして飼っておく所です。
 魚仙はこのような立地条件から、生作など新鮮な魚介料理が特長だったのでしょう。

 生作は「いきづくり」ともいいますが、辞書を見ると「いけづくり」が普通のようです。生きている魚の腹をさいて内蔵を除き、頭・尾・大骨はそのままにして肉を刺身にして大骨の上に並べ、生きていた時のような姿にして供する料理です。もとは生命力の強い鯉の料理法でしたが、他の魚でも同様な作り方をしたものを生作とよんでいます。
 『鯛百珍料理秘密箱』(1785)には「生造
(いけづくり)鯛の仕方」がありますが、下身はそのままにして上身は皮を残して肉をすき取り、別の鯛で作った刺身を大骨の上に並べ、上身の皮をかぶせる方法が書かれています。
 監修・著 松下幸子千葉大学名誉教授
>>松下教授プロフィール
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