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あわ餅(仮題)
歌川豊国(三代目)画 文久元年(1861) 国立国会図書館所蔵
 粟餅は江戸時代に人気のあった庶民の菓子で、菓子製法の専門書『古今名物御前菓子秘伝抄』(1718)には、要約次のような作り方があります。「精白した糯粟(もちあわ)1升に米3合ほど加え、約2時間水に浸してから蒸し、臼(うす)で搗いて小さく切り、中にあんを入れて包むか黄粉をまぶす」。
 『守貞謾稿』(1853)には粟餅店について、挿絵入りでおよそ次のようにあります。「粟餅は神社の賑わう日などに、路傍のよしず張りの店で売っている。搗き上がった餅を手でつかみ、5本の指の間から同じ大きさの団子を4個出して2メートルくらい離れた皿に投げ入れる。皿の中で砂糖をまぜた黄粉をつけて売る」。餅の搗き方も粟餅の曲搗きと呼ばれ、掛け声を合図に杵を投げ上げたり、身振手振り面白く、団子も空中を飛ぶので見物人も多かったといいます。
 粟餅の曲搗きは人気があったところから、通称「あわ餅」として歌舞伎にも取り入れられました。以下の歌舞伎に関する記述は、前回と同様国立劇場の石橋先生のご教示によるものです。
 「あわ餅」は本外題を「花競俄曲突」
(はなのほかにわかのきょくづき)といい、弘化2年(1845)に初演された風俗舞踊です。初演の時は粟餅屋の男2人に、いろいろな職業の見物人がからむ構成でしたが、今では粟餅屋の男2人だけにしたり、これを夫婦にしたり、いろいろな上演形態がありますが、上演されることは稀で、「団子売」の方が人気があるようです。
 上の絵は「あわ餅」の舞台で、左から市村羽左衛門(13代目、のちの5代目菊五郎)、中村芝翫(4代目)、河原崎権十郎(初代、のちの9代目團十郎)で、この配役で文久元年(1861)に市村座で、「契恋春粟餅」(ちぎるこいはるのあわもち)の外題で上演されています。
 監修・著 松下幸子千葉大学名誉教授
>>松下教授プロフィール
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