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広大な庭園には満開の桜を楽しむ女性が3人、左端には徳利と盃洗があり、料理を詰めた重箱が二つ見えます。花見の錦絵には大抵重箱が描かれており、花見には重詰が付き物だったようです。花見重詰の料理については既にとりあげましたので、今回は重箱について考察してみました。
江戸で庶民も花見を楽しむようになったのは、八代将軍吉宗の享保年間(1716~36)からといわれており、18世紀半ばには花見の名所に水茶屋などもでき、19世紀に入ると集団での賑やかな花見が多くなったようです。そして花見に持参する弁当の器はおもに重箱で、重箱に徳利・盃・取り皿・箸などを組み入れた携帯用の提重箱もよく使われていました。
重箱は、三重、四重、五重がふつうですが、江戸時代には十重のものもあったそうです。形はおもに四角で、丸いものや小判形などの変形もありました。大きさは六寸、七寸、八寸、一尺などさまざまで、内朱外黒の漆塗の無地が多く、蒔絵のものもありました。
重箱の名の文献への初出は『饅頭屋本節用集』(1444~86頃成立)といわれ、室町時代後期には重箱があったようです。
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重箱がどのようにして出来たかについては、『骨董集』(1813成立)や『貞丈雑記』(1843)には縁高(縁を高くした折敷)が母体とあり、『和漢三才図会』(1712)では食篭(じきろう)からとしています。
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『守貞謾稿』(1853)には、幕の内弁当は六寸重箱に入れるとあり、吉事に親類や知人に赤飯を配るのに重箱を使うとあり、江戸時代には重箱がよく使われています。そのようなことからか「重箱の隅を楊枝でつつく」「重箱に鍋蓋」など、たとえにも重箱はよく登場しています。
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