|
酉のまちは現在は酉の市、お酉さまと呼ばれ、11月の酉の日(初酉、二の酉、年により三の酉も)に行われる鷲(おおとり)大明神をまつる鷲神社の祭礼です。江戸周辺では葛西花又村に古くから鷲神社があり、また目黒にもありましたが、江戸時代後期には、浅草新吉原の裏田圃(現在の台東区千束)にある鷲神社が、最も参詣人が多く賑わいました。
上の絵も日本堤を行く参詣帰りの人々で、うしろの方には吉原遊郭の屋根が見えます。
|
|
左の女性がさげているのは、酉の市の土産の頭(とう)の芋、中央の女性は切餅の包みを持ち、右端のお供の小僧は熊手を担いでいます。鷲大明神は商売繁盛と開運の神で、熊手は福を掻き込む縁起物として、おかめの面や宝船などを付けたものが売られていました。
『守貞謾稿』(1853)には、熊手を買うのは遊女屋・茶屋・料理屋・船宿・芝居関係の者で、1年中天井の下にかけておくとあります。
|
|
頭の芋は、人の頭(かしら)に立つという名から縁起物とされましたが、唐の芋とも書いたようです。調べてみると頭の芋は、親芋子芋兼用の里芋の1品種で、現在のヤツガラシのようですが、確実なところはわかりませんでした。頭の芋は蒸してから数個を笹枝にとおして、輪にして売っていました。
|
|
切餅は黄色の餅で、黄金餅(こがねもち)と呼び、黄金持に通じるところから縁起物として酉の市で売っていました。『東都歳時記』(1838)には黍餅(きびもち)とあり、『守貞謾稿』には粟餅(あわもち)とありますが、共に黄色の餅です。
『東京風俗志』中巻(1901)の酉の市の項には、白・赤・緑の3色の切餅とあり、上の絵の切餅も3色に見えますから、幕末の嘉永の頃には3色の切餅も売られていたようです。
|
|
このほか、ゆず、飴、おこし類や小間物の店なども出て、酉の市の日は賑わいました。
|
|
|