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富士登山諸講中の図
歌川国芳(一勇斎)画 国立国会図書館所蔵
 国会図書館では、この絵を「富士登山諸講中の図」としていますが、「大山詣(おおやまもうで)高輪の図」としたものもあり、中央の茶屋に下げてある札には大山講中もあります。左下には富士講中らしい白装束の一行も見えますから、諸講中が茶屋で一休みして、これから出発するところなのでしょう。場所は品川沖の見える高輪で、左手に高輪大木戸の石垣が見えます。
 江戸では18世紀後半から、夏になると庶民たちの富士詣や大山詣が盛んに行われました。富士講は富士信仰の組織で、信徒は白装束で金剛杖をつき、鈴を振り六根清浄を唱えながら登拝しました。富士山に登ると災難から免かれると信じられていたので、江戸市中には浅草・駒込・高田・深川・目黒などあちこちに富士塚(人造の富士山)がつくられ、富士山の山開きの6月1日は、前夜から富士詣と同様に賑わったといいます。
 大山詣は相模(神奈川県)の大山の石尊権現へ登拝するもので、大山講には下町の大工・左官・火消などの人々が多く、上の絵の中にもそれらしい姿が多く見られます。大山は富士山よりも江戸から近いところから、信仰と同時に庶民の楽しみでもあったようです。
 上の絵では茶屋の女性が茶の準備に忙しく、腰かけて茶を飲む客もいます。茶屋の左端の手前に、右手で丸いものを持って食べている人がいますが握り飯のようです。握り飯は女詞(おんなことば)でむすびともいい、掌に塩水をつけて飯を握ってつくりますが、その形について『守貞謾稿』(1853)には次のようにあります。「三都とも形定まりなしといへども、京坂は俵型にせいし、表に黒胡麻を少し蒔くものあり。江戸にては、円形あるひは三角等、径(わた)り一寸五分(約4.5cm)ばかり、厚さ五、六分にするもの多し。胡麻を用ふること稀なり。多くは握りて後にこれを炙(あぶ)るもあり。」

 監修・著 松下幸子千葉大学名誉教授
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