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鯨の骨は縄文遺跡からも出土していて、古代から鯨は利用されていたようです。日本での捕鯨の始まりは、室町末期の元亀年間(1570-73)で、銛(もり)で鯨を突き殺す突取法が三河・尾張地方で始まったとみられています。
その後、網を張ってあるところへ鯨を追い込み、それから突きとる網取法が紀州太地で延宝5年(1677)に考案されました。
網取法では必要な漁船の数も多くなり、鯨組という捕鯨のための組織がつくられ、肥前・対馬・壱岐・長門・土佐・紀伊・陸前などで捕鯨が盛んに行われました。
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『日本山海名物図会』(1754)には、捕鯨について、鯨遠見、鯨気(潮)を吹く図、鯨置網、鯨突船、鯨引寄図の挿絵を添えて詳しく記しています。鯨には、ざとう・小くじら・まっこう・せみ・ながせ(ながす)の5種があるが、ながせは見つけてもとらぬのが鯨とりの作法であると書かれています。 |
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上の錦絵は同書の鯨引寄図に相当するのでその解説の1部を次に引用します。
「つきとめたる鯨に真網をつけ、ろくろにて地方(ぢかた)に引きよする也。此ろくろをかぐらさんという。其肉を切て油を取也。惣じてくじら皮は黒く、其内に白肉有、白肉の下に赤肉あり。皮くじらとて売買するは尾とひれの間也。是を尾はせ、おっぱという也」
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鯨は哺乳動物ですが、形体が魚と似ているところから、明治以前は魚として扱われていました。室町後期の『四条流包丁書』には、美物(ごちそう)を供する順序として、魚ならば一番に鯉、その後に鯛など、海のものならば一番に鯨としています。
江戸時代になると魚の一番は鯛、鯨は上中下に分類すると下魚とされています。
しかし鯨は多くの料理書に登場し、鯨汁は12月13日の煤払(すすはらい)には欠かせない食べ物でした。
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