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紫陽花は古代から日本人に親しまれた花ですが、『江戸名所花暦』(1826)にはその名が見当たりません。紫陽花は自生するものも多く、緑の多い江戸では、どこにでも咲いていたからでしょうか。文政6年(1823)に日本を訪れて滞在したシーボルトが紫陽花を好んだことはよく知られています。
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紫陽花の前の2人の男性については、私には見当もつかず、服部幸雄先生に教えていただきました。右側が坂東竹三郎(のちの五代目坂東彦三郎)、左側が初代中村鶴蔵(のちの三代目中村仲蔵)で、夏の花と、花形役者の夏姿の組み合わせの趣向ではということでした。
鶴蔵は一見役者には見えませんが、見た目ではなく、忍耐と努力で名題役者に出世した人といわれています。
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右側の美男役者が持っている器の中身は何でしょうか。夏の季節ですから冷たい食べ物で、液体ではないようなので、ところてんでしょうか。上に赤と白の物が見えるのが気になりますが、蜜豆はまだない時代なので、ところてんと推定することにしました。
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ところてんは海藻のテングサを煮とかして、冷やして凝固させたもので、心太(こころぶと)の名で奈良時代から食用にされ、室町後期からは街頭でも売られるようになり、現在のところてん突きと同様の道具も使われていました。
江戸時代にはところてんと呼ばれるようになり、夏の食べ物として人気があり、『守貞謾稿』(1853)には、江戸では砂糖か醤油をかけて食べ、京坂は砂糖で醤油は使わないとあります。『黒白精味集』(1746)には、ところてんの項に、水菓子にする時は赤・白・黄色などに着色し、砂糖やきな粉で食べるとあり、錦絵のところてんの赤と白も説明がつきそうです。
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